2011年 09月 08日
天国から贈り物 |
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by torubadour
| 2011-09-08 08:44
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2011年 07月 29日
「人間を単なる手段としてのみ扱うことは許されるか」
私は倫理学Aの講義の期末レポートのテーマとして「人間を単なる手段としてのみ扱うことは許されるか」という問いを選び、これについて私なりに考えてみたい。 「人間を単なる手段としてのみ扱うことは許されるか」という問いに対する答えはイマヌエル・カント(1924~1804)の『道徳形而上学論』のなかに見ることができる。カントは「人間ばかりではなく、およそいかなる理性的存在者も、目的として存在する。すなわちあれこれの意志が任意に使用できる単なる手段としてではなく、自分自身ならびに他の理性的存在者たちに対してなされる行為において、いついかなる場合にも同時に目的と見なされねばならない」とし、自然的欲求であるところの「傾向」からくるものではなく知的能力だけにとどまらない実践的能力としての「理性」を持った存在者、「理性的存在者」の本性を「人格」と定義し、「理性的存在者は目的自体として存在する」として、その主観的原理は自分以外の「理性的存在者」も同じ理性根拠に従って持っていると説く。よってこの主観原理は同時に客観的原理であり、意志を決定するいっさいの法則は、最高の実践的根拠としてのこの原理から導き出されなければならないとして「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない。」と結論づけている。つまりカントは、人間が「より善く生きたい。幸福になりたい。」と「目的」を持ち、そのための「知識」を得る能力のみならず「実践」する能力、人間の生き方を指示する能力を持つところの「理性的存在者」の人格に存在する「人間性」は、自分だけではなく、他の「理性的存在者」の人格にも例外なくすべて存在している。我々はその神聖なる「人間性」を無視して「手段」、つまり「意志に依る存在」や「理性的存在者の目的・念願」を持たない「物(物件)」として人を扱うこと禁めているのである。カントはこの後、「自分自身に対する義務」や「必然的な、或いは責任ある義務」など四個の実例をあげて説明しているが、私は私なりにこのカントの「答え」について考えて行きたい。 私は「答え」のなかにある「手段」(もちろん「問い」のなかにもあるが)という言葉の意味をいま一度考えてみたい。ひらたく言えば「手段」とは目的達成のために人を「道具」ように利用するということでもあるだろう。倫理学という「道徳の学」のなかにいま一度落とし込めば、そこにはどんな人間関係、社会状況が浮かびあがってくるだろうか。そして、そのなかで人が人を「道具」として扱うとはどんなことなのだろうか、思いつくままその人間関係、社会状況をあげてみたい。家族関係では、家長とその家族、親と子供、夫と妻、姑と嫁、兄と弟。社会的関係ではどうだろうか。国家と国民、会社と社員、上司と部下、先輩と後輩、得意先と納入業者、富裕者と貧困者など、時代が古ければ領主と領民、貴族と農奴、指揮官と兵隊、親方と職人、教会と信徒など、いずれも上下関係や支配関係が浮かびあがってくる。カントの道徳哲学は、どんなとき、どんなところで生まれたのであろうか。小牧治、1969『倫理学入門』(有信堂)を参考にしながら調べてみた。 カントは1724年、東プロセインの首都、ケーニスベルグで生まれている。ケーニスベルグは現在ロシア領で名前もカリーニングランドとなっている。小牧によれば、カントの生まれた家庭はキリスト教のプロテスタントの一派で内面的信仰を重んずるピエティスムスの信者の家に生まれ、その敬虔的内面的信仰の教えのもと、信仰深い母や牧師から強い影響を受け、後に内面的な動機(意志を決定する内面的根拠)を重視する道徳論をつくりあげていったという。 つぎにカントの生まれた十八世紀のケーニスベルグと東プロセインの社会はというと、他の西欧の国々と比べて近代化から立ち遅れており、まだグーヘルシャフトという領主に対する農民の隷従がきわめて甚だしい封建体制で、中世的市民意識、つまり親方が職人や徒弟を人格的に支配し、手工業者の組合(ツンフト)や商人団体(ギルド)の規制が厳しいなかでの市民的意識がただよっていた。小牧によれば、そのようなケーニスベルグでは自由な近代的個人の展開はまだ十分ではなく、内面的信仰を重んじるピエティスムスは、現実的な問題を内面的問題へまつりあげ、現実の政治的・経済的・社会的問題の改革等に対してははなはだ弱いものであったという。また、西欧諸国の「近代化」、産業革命やブルジョア市民革命の展開などの波は東にも押し寄せ、修正や改善を迫られた啓蒙君主フリードヒ大王(一世)の近代化改良も「上からの近代化」であり、そのような状況下でカント的道徳論は「以上のような『とき』と『ところ』の道徳的エートス(道徳的環境、道徳的雰囲気)の『自覚化』であり、同時に『改善的啓蒙』であり、『近代化的修生』であったのである」と小牧は結論づけている。確かにカントの唱えるところの、「人を決して単なる手段として使用してはならない」という背景が自分なりに理解できたと思う。また、自殺をしてはいけないという「自分自身への義務」は自分を手段化してはいけないことを、他人に偽りの約束をしてはいけないという「他人に対する必然的な、或いは責任ある義務」では他人の人格を無視して自分に都合のいい手段として利用してはいけない、といったことなどの考えに信仰の力が大きく働いたであろうということもわかった。ではこのカントのカント的道徳論は現代の私たちが置かれている状況のなかでどんなことを教えてくれるだろうか。 前述した人間関係、社会状況をもう一度あげてみよう。国家と国民、会社と社員、上司と部下、先輩と後輩、得意先と納入業者、富裕者と貧困者、いまの重要問題として企業と消費者、工場と住民などもあげなければならない。この度の東日本大震災によって引き起こされた福島原発問題に関する電力会社の情報操作など、住民、国民をないがしろにしたかのような一連の企業運営は、カント的道徳論をもって十分に諌められ正されるべきである。しかし、ここではより身近な問題として「大学」「就職」について考えてみたい。なぜなら今大学生である私たちにとって学問を学ぶところである「大学」そのものには上下関係、支配関係が希薄だからである。しかし数年後には卒業し、多くの学生が支配関係の有る無しは定かではないが、はっきりと上下関係がある「社会」「会社」「企業」「組織」のなかに入っていく。このコペルニクス的転回を数年後に控えた大学生たちにカント的道徳論は何を教えてくれるのだろうか。いやそもそも彼らに通用するのだろうか。 大学で授業を受けていて、講義中にもかかわらず騒々しかったり、はたまた居眠りならまだしも突っ伏して寝ている学生も多い。授業を企業における研修、講習、または会議、プロジェクトと考えると多くの学生は残念ながら「会社」「企業」で働く資質を持ち合わせてはいない。またカントの言うところの「理性的存在者は目的自体として存在する」というその理性的存在としての自己を問う学生、つまり「意志に依る存在」や「理性的存在者の目的・念願」を考える学生は少ないように思う。しかし、数年後には企業からの指示や要請もないのに就職活動において黒いスーツを誰もが着用し、まるで企業戦士の訓練生のような趣きで会社説明会に行き、就職試験を受けるなどの就職活動を行う。その姿は、自らを「理性的存在者」と見なさず、知的能力に実践能力をともなった「理性」を持とうとせず、せいぜい「傾向」という自然的欲求である範疇の片隅に存在しようしているように感じる。そもそも、受験戦争をくぐり抜け大学に入り、学問を得たかどうかは別として規定の単位を取得して卒業し、ある意味服従を表すかのような黒いスーツを来て就職活動をする、という一連の行為のなかには「意志に依る存在」や「理性的存在者の目的・念願」はあるのだろうか。いまこの大学にいる学生はどのような「目的・念願」をもっているのだろうか。「人よりも少しでもいい生活がしたい」から「人よりも少しでもいい会社」に入り、そのために「人よりも少しでもいい大学」に入る。もしかするとそれは自らを「理性的存在者の目的・念願」を持たない「物(物件)」と見なしていないだろうか。それは自らを「手段」として扱うという行為ではないだろうか。そしてそれは「自分自身に対する義務」の不履行、つまり「自殺」に等しい行為なのではないだろうか。 カントの生きた時代は前述したようにまだ封建制度が残っており、支配関係、上下関係が強い時代であった。ゆえに、人びとの持つ「意志」や「人格」が無視され道具として扱われることが多くあっただろう。しかし今は「自由社会」である。確かに「会社」「企業」は「組織」であるがゆえ上下関係が存在する。しかし、自らの「意志」や「人格」を持たない、自らが自らを「被支配者」の存在に落とし込んだかのような者を、「会社」「企業」は必要とはしていない。カントの「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない。」という言葉は今、大学生である人たちに向けて発せられなければならない。そして大学生たちは、まず「君自身の目的・念願」「君自身の人格」は何であるかを問わなければならないだろう。私はいま、そのことを同じく大学で学ぶ者として、また小さいながらも企業を経営する者として、切に願ってやまない。 #
by torubadour
| 2011-07-29 08:33
2011年 07月 28日
鶴岡八幡宮における神仏分離の流れ まず鎌倉八幡宮の別当・供僧が還俗した時期であるが、高柳光壽は「鶴岡八幡宮神佛分離事件報告」(『明治維新神佛分離資料 巻下』)で「なほ復飾の日時については文明ではないが、明治三年二月以前であったことは、當社所蔵の記録によって明である。」と述べているが、『鶴岡八幡宮年表』を調べると、明治元年十月、供僧・小別当復飾し、総神主・大禰宜と称す【鶴岡八幡宮一社明細書上】。とあり続いて、この月、復飾の供僧、国司遠江・武内司・香山大隅・加藤近江・相楽筑前・小別当大庭和泉、白川神祇伯家に入門す(十~十一月)【白川家門人帳】、とあり、慶応四年閏四月四日の太政官布告から約半年後に復飾したことがわかった。このときの十二院の供僧の様子はというと、「甚だ腑甲斐なき状態であった。餘裕のある生活が、早くから精進を嫌悪せしめて居たであろうけれども、復飾ということが、直ちに日來羨望して居った武士の姿となり両刀を挟み、肉食妻帯ができるといふので、一人の反對者もなく、寧ろ欣喜雀躍復飾改名し、社頭の分離を断行し、今まで僧侶であった身が、僧尼不浄の輩入るべからずと掲示し、甚しきに至っては、最勝院の加藤某が如き、これ幸ひと藤澤から遊女を迎えて妻としたということである。」と「鶴岡八幡宮神佛分離事件報告」(『明治維新神佛分離資料 巻下』)では静川慈潤の話を引用して、その一人の反対もなく、むしろ喜んで還俗した供僧たちの腑甲斐なく、あきれるような態度について述べている。また鈴木勝男は「鶴岡八幡宮の歴史」(『御鎮座八百年 鶴岡八幡宮』)で宝戒寺の住僧澄海の「彼等昨日三鈷を握った手で、今幣帛を執っているではないか。自ら僧尼不浄の輩入る可からずと掲示して、得々たるは何の意ぞ。数百年以来の神事はみな仏教の者に依って行はれたものである。彼等の言行は、先祖を侮辱し、恩義を忘却し、実に宗門の大罪人である。」と、還俗した供僧が神官になったとたん「僧尼不浄の輩」は神域に入ってはならないという掲示をしたことについて憤懣やるかたない思いであったことを紹介している。 鶴岡八幡宮の十二院の別当・供僧たちは還俗にあたり次のように改名した。 浄国院ー国司信成、正覚院―筥崎博尹、香象院ー香山良実、等覚院ー大島教義、 海光院ー海野俊雅、荘厳院ー武内康側、相承院ー相楽亮太、増福院ー増山尚義、 我覚院ー岡本忠義、最勝院ー加茂良和、恵光院ー野田信高、安楽院ー畠山嘉正 この改名について高柳は、全くでたらめな姓氏の付け方で、浄国院は国の一文字を取って国司と、相承院は相の一文字を取って相良と命名し、同じように、海光院は海野、増福院は増山、香象院は香山といった有様であり、また想像に過ぎないがとことわりながら、荘厳院の武内氏は別殿武内社の祭神、武内宿禰から、安楽院の畠山は畠山重忠から、また正覚院の筥崎氏も筥崎八幡宮から思いついたかも知れないと、その命名の成り行きの滑稽さを述べている。 また、その供僧たちが復飾還俗して新たに鶴岡八幡宮の神官身分になったときの役職名とその命名の顛末も滑稽である。鶴岡八幡宮の神主としては昔から長きにわたって大友氏が代々、神主を務めていた。十二院の供僧は、いままでは僧侶として神主の上の立場にいたが、還俗して神職になると、いままで見下していた大友氏と肩を並べるだけでも面白いことではなく、ましてや大友氏の下に立つことは到底堪えられないことであった。そこで彼等は大友氏の上に立つべく「総神主」という新たな名称を生み出した。そして神主一人の上に十二人の「総神主」が立つという奇妙な序列が生まれた。そうまでしても彼等は、神主より上の立場であった供僧であったことの自負心と、供僧であったときの権力を保持したかったのである(『鶴岡八幡宮年表』には、明治二年(1868年)の項の最後に月日を明記せず、元供僧十二名に神主許状が与えられ総神主と称し、小別当には大禰宜許状が与えられる【鶴岡八幡宮一社明細書上】とある)。しかし、急ごしらえで総神主になった元供僧たちは、慣れない神職勤めと八幡宮自体の財政困難などが影響して、神職をやめて小学校の教員になる者がいた。その他転職する者もいて、旧相承院の相良氏はふたたび髪を剃って僧侶となり、落ちぶれた者には豆腐売りや車夫になった者もいたという。八幡宮自体の財政困難の要因となったのは、「明治四年(1871年)一月五日、社寺領上知の令発布せられ、現境内内地を除く外、全て上知の旨、布告あり。【太政官布告第四号】」(『鶴岡八幡宮年表』)という通達のことであろう。上知とは政府に所領を上納することで、鶴岡八幡宮ではこのときの八幡宮境内の範囲を示した「鶴岡八幡宮明治四年境内絵図」(絵図 3)を作成している(この絵図は昭和四十二年四月に八幡宮が国史跡に指定された根拠ともなった)。その絵図を収めている『御鎮座八百年 鶴岡八幡宮』の解説には、「明治四年(一八七一)五月、神仏分離後の鶴岡八幡宮境内を描いた絵図である。下宮一帯をみると、神楽殿、若宮、いくつかの末社があるのみで、仁王門があった位置には鳥居が建ち、仏教関係の堂塔は全て取り除かれてある」とある。それでは鶴岡八幡宮ではどのような廃仏毀釈がおこなわれたのであろうか。江戸時代の絵図や外国人が写した写真などを利用しながら、その様子を掴んでみたい。 鶴岡八幡宮における廃仏毀釈 鎌倉八幡宮における廃仏毀釈は明治三年(1872)五月に行われた。それまで再三にわたり神奈川県庁からの催促があり、ついに総神主の筥崎博尹が代表して、次の届書を県庁に提出した。 御 届 書 鎌倉鶴岡八幡宮御社内在来之薬師堂、護摩堂、大塔、経蔵、鐘堂、仁王門、右混淆之仏堂取除キ、仁王門跡江華表取建、内廊三面、堀垣別紙絵図面之通修理仕候、以上。 鎌倉 鶴岡八幡宮一社惣代 明治三年五月 総神主筥崎博院 印 神奈川県御役所 こうして鶴岡八幡宮にあった薬師堂・護摩堂・大塔などの仏教関係の堂舎は、わずか十日ばかりで取り除かれた。取り壊された諸堂の材木は古材として売却されたり、近所の住民がわずかな金を払って境内に入り、銅板などを背にかついで持って帰ったという。そして取り除かれた仁王門のあとには華表(鳥居)が建てられた。 それでは神仏分離前の鶴岡八幡宮の姿をよく伝えているといわれる、享保十七年(1732)の境内絵図(絵図 2)と明治四年の境内絵図(絵図 3)を比べてみよう。享保十七年の境内絵図では、下宮にはそれ以前にあった回廊はなく、一段高いところに仁王門があり、それを入ると左手に七間四面の護摩堂(五大尊をまつり五大堂ともいわれた)、その背後に輪蔵(経蔵)(写真 ベアト47)があり、仁王門の右手には、大仏・大鳥居とともに当時の鎌倉の三名物の一つといわれた十間四面の大塔(多宝塔)(写真 ベアト45)があり、その奥に鐘楼があった。正面には舞殿(神楽殿)(写真 ベアト写真42, 46)があり、上宮に続く石段の右手に若宮拝殿本殿があり、さらにその右にはこれも十間四面の薬師堂(吾妻鏡等の記事では神宮寺、または神護寺。天正の指図では御本知堂)(写真 ベアト45)があった。上宮楼門外には左に愛染堂、右に六角堂があった(写真 ベアト44)。 次に明治四年の境内絵図を見てみよう。前述したように仁王門はなく、鳥居が建てられている。石垣と数段の石段によって高くなっている部分の遺構は現在でも残されているが鳥居はいまはもうない(写真 1. 2)。下宮の護摩堂・輪蔵(経蔵)・大塔(多宝塔)・鐘楼は取り壊され、上宮の愛染堂・六角堂も除かれた。 『維新神佛分離資料 巻下』には、仁王門は浦賀の某寺に移され、俗に浦賀の赤門と称されたと記されている。この門にあった仁王像は鎌倉市扇ケ谷の寿福寺に移り、本堂内に安置されたという。寿福寺を訪ねてみたが本堂のある境内に入ることができず確認はできなかった。 護摩堂には源実朝が奉納したという宋版の一切経(大蔵経)があったが、四天王寺像とともに東京浅草寺に移った。浅草寺に行かずに残された経巻は塔の辻で焼かれたという。浅草寺に行った一切経は、浅草寺版大蔵経五四二八巻として重要文化財に指定されたが、四天王像は昭和二十年に戦災で焼失した。 明治四年の境内絵図では仏教関係の堂舎が取り除かれたばかりなので下宮は広々とした空間となっているが、現在は大塔の跡地付近には参拝者のための直会殿(なおらいでん)や柳原休憩所が建てられている。その二つの施設の前の林となっている場所がちょうど大塔の跡ではないかと私は思う(写真 3. 4)。またこれも推測だが、ベアトが撮った舞殿(下拝殿、神楽殿)(写真 ベアト46)の写真に建物の礎石のような大きな石が写っているが、これと同じような石が現在も若宮と石段の間に置かれている(写真 5. 6)。もしかするとこれは大塔の礎石なのではないかと思った。この石は『100年前の横浜・神奈川 絵葉書で見る風景』のⅤ鎌倉、神社と寺院の ①鎌倉八幡宮の境内、という絵葉書でも見られる。上宮への石段の右脇に四角い穴の開いた大きな石が三個確認できる)。 下宮の薬師堂があった場所は明治18年にあたらしく白旗神社が建てられた。これは頼朝をまつって、もともとは上宮(本宮)の西にあった白旗社(絵図によっては頼朝社。)と裏参道の入り口の脇にあった実朝をまつる柳営社(実朝社)を合祀したものである。明治四年の境内絵図では、確かに下宮の薬師堂あとにはまだ社らしき建物は確認することはできない。墨で四角く枠取りされた若宮の右隣の細長い建物は、おそらくこの明治四年の境内絵図を元にして描かれたと思われる明治初期の「相州鎌倉絵図」によれば「御末社」と書かれており、やはり薬師寺の跡には建物はない。そして上宮の白旗社(頼朝社)が「伊勢両宮」となっている。これは「政教一致」=「伊勢神宮を頂点とした神道の統一」を物語るものであろう。次に明治二十九年出版の「相模国鎌倉名并江之島図」を見ると、白旗神社の名が見え、上宮の白旗社の跡地には建物が描かれていない。現在も建物はなく遥拝所のような空間になっていた(写真 7)ので社務所でたずねると、今は宇佐神宮の遥拝所となっているとのことだが、その経緯はわからないとのことであった。 先ほど述べた下宮の御末社には、天正指図を参考にすると鶴岡八幡宮と所縁の深い熱田社(頼朝はの母は熱田神宮の宮司の娘である)、三島社(頼朝が幽閉された伊豆の一宮)などがまつられていたようだが、それもいまはなく、いつなくなったかもさだかではないようだ(社務所でたずねたことに対してほとんどがわからないとの答えだったが、私には社務所の方の不勉強のように感じた)。 もう一度明治二十九年版の絵図に目をやると、白旗神社の前の様子が今までの絵図とはかなり違っている。楕円形の競馬場のコースのようなものがつくられ、その上部分を横切るように流鏑馬馬場(小路)と思われる一直線の道がある、しかし仁王門跡の鳥居のところで途切れており西ノ鳥居から参道に伸びる道とは享保十七年の境内絵図のように直線でつながってはいない。流鏑馬神事とともに競馬(くらべうま)というのもあったようでそれに使われたのであろうか。江戸時代には旗本の家来などが鎌倉まで訓練を目的をとして馬で駆けてくることも多々あったようで、寒村と化してしまったが、鎌倉は武士の都、鶴岡八幡宮は源氏の御社という想いがあったのだろう。そのよい例がある。明治五年十一月、陸軍は鎌倉を演習地として適当であるかどうかを調査し、翌明治五年の四月十五日、わが国最初の陸軍攻撃演習が鎌倉で行われた。この演習に際して明治天皇が行幸し、鶴岡八幡宮の背後にある大臣山の野立所から統監した(この演習は、若宮大路をはさみ実弾を撃ちあったという。いまからは想像できないことだが、それほど当時の鎌倉の寒村ぶりを表しているといえよう)。明治天皇の行在所は総神主筥崎博尹宅であった。明治天皇は翌十六日、鎌倉宮に参拝した。維新政府は神仏分離の一方、かつての南朝功臣の神格化をすすめ、鎌倉では、1869年(明治2年)、中先代の乱(1335年)で鎌倉幽閉中に殺害された護長親王をまつるため、その終焉の地である旧東光寺跡に「鎌倉宮」が創建されていたのであった。(くだって1881年(明治14年)、元弘の乱(1331年)の翌年に鎌倉で斬殺された日野俊基を祀る「葛原岡神社」も創建された。) 以上、鶴岡八幡宮における神仏分離と廃仏毀釈をみてきたが、鶴岡八幡宮は神仏分離、廃仏毀釈によりその景観が大きく変わったことがわかった。それは鶴岡八幡宮寺が、鶴岡八幡宮へとあらたに創建されたかのような出来事だったのである。 さいごに このレポートを書くにあたってまず自分の歴史に対する知識の蓄積の少なさを知った。当初は「日本橋」、特に「魚河岸」についてレポートを書こうと思っていたが、鶴岡八幡宮の廃仏毀釈を知り、鎌倉に住み、多少なりとも鶴岡八幡宮と所縁のある私は「魚河岸」の前にもう一本「鶴岡八幡宮」のレポートを書いてみようと思った次第だが、調べていくうちに大変なことになったと思い知った。まずは鶴岡八幡宮を語るにも源氏の歴史、宇佐八幡、石清水八幡の歴史、鶴岡八幡宮と平泉と浄土庭園のつながり、各時代の支配者たちとの関係などをあらためて調べると、新しく知ることが非常に多かった。また神仏分離に関して各地の神仏分離の流れ、特に幕末以前に神仏分離をすすめた水戸藩や神仏分離の急先鋒となった津和野藩や薩摩藩などの例、あっさりと神仏分離がおこなわれた興福寺や激しい廃仏毀釈のあった日吉神社などの例や、神奈川においても「江の島」も「大山」も廃仏毀釈があったことなどを知り、それらのことをこのレポートに書きたかったが果たせなかった。神仏習合についてもまだまだ調べるべきだったと思う。特に江戸時代の仏教寺院と葬祭についてはこれからも勉強していきたい。郷社などの民間宗教の神社も政教一致の流れのなかで合祀されたり、なくなったりして、民間宗教の行事などが途絶えてしまったりしたという。そういうこともきちんと知っておきたい。また江戸時代の末期の「おかげまいり」の流行が政教一致の政策の頂点に伊勢神宮を置いた一因になったかもしれないということ、新興宗教の流行から天皇を現人神に押し上げる着想を得たのかもしれないなど興味のある説があることも知った。今後も勉強していきたい。鶴岡八幡宮の神仏分離では、別当・供僧十二院の住居跡についてもこのレポートに書きたかった。十二院は当初二十五あったので住居跡は「二十五坊」と呼ばれ、八幡宮の西の裏手にある。訪ねてわかったのだが、その御谷(おやつ)と呼ばれる「二十五坊」の跡地は鎌倉の古都保存法制定のきっかけとなった地であった。そこには、大規模宅地開発の計画に反対し遺跡を保存する法律制定の住民運動をしたという新しい歴史があった(写真 8~10)。また供僧たちの墓は松源寺という今は廃寺になってしまった寺だったそうだが、八幡宮南の西端の近くにある「鉄の井」のあたりではと思い、あたりの地形から川喜田映画記念館がその跡地ではないかと館員の方にたずねたら、記念館に関する雑誌のなかから松源寺について書かれた記事を探してくださり、やはりそこが松源寺の跡だと確認できた(写真 13. 14)。因みに明治になっての最初の宮司筥崎博尹の墓も最初はここにあり、廃寺となるとき寿福寺に移されたとのことである。 長くなってしまった。今回の神仏分離がおこなわれた背景にキリシタン信仰の影響が垣間見えたり、廃仏毀釈には江戸時代の宗教政策のほころびや、時代の変革期に起こる熱病のような感情の高まりが大きな要因になったであろうこともわかった。知るということに尽きるということはないと実感している。日本文化史という講義を受講して毎週知的興奮を味わっている。ますますこれからも心して学んでいきたいと思った。 追記 このレポートを終えたあとに『鎌倉市文化財資料第7集 としよりのはなし』を読み、興味深い記事を二つ見つけたので紹介しておきたい。この本は、鎌倉の各地域の老人たちの話しで構成された、民俗資料として価値の高いものである。 鶴岡八幡宮のある雪の下地区の古老の話では、明治十年代の話しとして「そのころの鎌倉は疲弊しきっていて、八幡さまなんか荒れ放題だった。境内は社務所らしいもののそまつな建物が、仁王門の際にあって、境内は競馬場になって、馬券売場があり、また自転車競争もやった。源平池をまわるのだった。やぶさめもあったが、九月の祭りに十二所の牛馬商人が頼まれて白い衣装(白丁)をきてトコトコ馬を歩かせて、矢を射るだけのことだった。それでも見物人は集まったね。(略)神主も三人くらいしか居なかった。お宮の左側にちっちゃな小屋があって、そこに神主がいたようだ。(略)いまの段葛に桜を植えたのはたしか日露戦争後だったナ。そえまでの段葛には松や梅のほか、えぼたなどの雑木があっちこっちに生えていた。観光客もくるようになって、むさ苦しいから綺麗にしたら、というので、それをひっこいで、育ちのいい桜にしたら、花見もできる、というので、桜の苗木を植えた。そしたらそれが折られちゃったので、四、五年たってから、こんどは背の届かねえような若木にかえた。それが育って段葛が桜の名所になった。また同じく雪の下の項に、「筥崎氏の葬儀」の記事がある。「八幡宮の初代宮司筥崎博尹の葬儀には、伊勢の大神宮より鎌倉寄り、さらに東北地方からの神主は全部参列して、とても盛大で、参列の神主には往復旅費から手当までのこころづけをしたそうである。この初代宮司は白旗宮の祭礼を一回行うことになっているのを、さらに一回自費で行い、毎年二回ずつ施行したりして、とても立派に祭典をしたという事で、そのため全財産を、消費してしまったというので、当時有名な神主であったという。この筥崎氏の墓は、現在、岩井堂の一六番地の川喜田氏のところにあったが、わたしの子供のころ松源寺が廃寺になって、墓が他にうつされたので、筥崎氏の墓は寿福寺に移された。随分大きな立派な墓である。」引用が長くなったが歴史書では知ることのできない庶民から見た歴史が語られていて、まさにそのときの情景が目に浮かぶようである。しかし、明治二十九年の絵図にあった八幡宮の境内の楕円形の競馬場のコースのようなものは、八幡宮の祭事としての競馬(くらべうま)ではなく催事としての賭け事の競馬だったとは驚きである。段葛が桜並木になった経緯も面白いし、なんといっても松源寺が今の川喜田映画記念館にあったことの裏付けが取れたことが嬉しかった。 参考文献 <神仏分離・廃仏毀釈・日本史> 田中彰、1987『明治維新観の研究』北海道大学図書刊行会 安丸良夫、1979『神々の明治維新』岩波新書 圭室文雄、1977『神仏分離』教育社歴史新書 井上清、1965『日本の歴史 中』 <鎌倉> 松尾剛次、2005『鎌倉 古寺を歩く 宗教都市の風景』 河野眞知郎、1995『中世都市鎌倉』 松尾剛次、1993『中世都市鎌倉の風景』吉川弘文館 五味文彦編、1992『中世を考える 都市の中世』(「一 中世都市・鎌倉」松尾剛次) 網野善彦・石井進・福田豊彦、1989『よみがえる中世3 武士の都 鎌倉』平凡社 川添昭二、1978『鎌倉文化』教育社歴史新書 鎌倉市、1989『市制施行五十周年記念 図説鎌倉年表』鎌倉市 稲葉一彦、1982『「鎌倉の碑」めぐり』表現社 御所見直好、1975『鎌倉史話散歩』秋田書店 鎌倉市教育委員会、1961『鎌倉市文化財資料第7集 としよりのはなし』鎌倉市教育委員会 渋江次郎編、1960『鎌倉国宝図録⒄ 鎌倉の古絵図⑶』鎌倉市教育委員会・鎌倉国宝館 <鶴岡八幡宮ー神仏分離・廃仏毀釈> 加藤理、2002『<古都>鎌倉案内』洋泉社 関口欣也、1997『鎌倉の古建築』有隣堂 貫達人、1996『鶴岡八幡宮寺ー鎌倉の廃寺』有隣堂 三浦勝男、1968「鶴岡八幡宮と神仏分離」(三浦古文化研究会『三浦古文化 第4号』京浜急行電鉄株式会社) 高柳光壽、1928「鶴岡八幡宮神佛分離事件報告」(村上専精・辻善之助・鷲尾順敬編、1928『明治維新 神仏分離資料 巻下』東方書院) 静川慈潤、1928「明治初年の鶴岡八幡」(村上専精・辻善之助・鷲尾順敬編、1928『明治維新 神仏分離資料 巻下』東方書院) 地方史研究協議会編、1999『都市・近郊の信仰と遊山・観光』(「大山の神仏分離」手中正) <鶴岡八幡宮ー社史・案内> 鶴岡八幡宮・宮司白井永二、1996『鶴岡八幡宮年表』鶴岡八幡宮社務所 鶴岡八幡宮、1991『御鎮座八百年 鶴岡八幡宮』鶴岡八幡宮(「鶴岡八幡宮の歴史」三浦勝男) 貫達人、1976『鶴岡八幡宮』中央公論美術出版 鶴岡八幡宮社務所、年代不詳(推定1970~80年代)『鶴岡八幡宮』鶴岡八幡宮社務所 鎌倉市史編纂委員会、1959『鎌倉市史 社寺編』吉川弘文館 <仏教関係> 末木文美士、2010『近世の仏教 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by torubadour
| 2011-07-28 12:28
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