2011年 09月 08日
天国からギャビーのTシャツが送られてきました。
あ、本当はハワイに行った友達に買ってきてもらいました。あは。
あ、本当はハワイに行った友達に買ってきてもらいました。あは。

# by torubadour | 2011-09-08 08:44
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2011年 09月 08日
天国からギャビーのTシャツが送られてきました。
あ、本当はハワイに行った友達に買ってきてもらいました。あは。 ![]() # by torubadour | 2011-09-08 08:44
2011年 08月 19日
南信司写真展「HAWAIIAN DREAM〜日系人のリビングルームから〜」@横浜移住資料館
*撮影可能ということで撮影させていただき私が加工処理してしてアップしています。 ![]() ![]() ![]() ![]() # by torubadour | 2011-08-19 08:19
2011年 07月 29日
「人間を単なる手段としてのみ扱うことは許されるか」
私は倫理学Aの講義の期末レポートのテーマとして「人間を単なる手段としてのみ扱うことは許されるか」という問いを選び、これについて私なりに考えてみたい。 「人間を単なる手段としてのみ扱うことは許されるか」という問いに対する答えはイマヌエル・カント(1924~1804)の『道徳形而上学論』のなかに見ることができる。カントは「人間ばかりではなく、およそいかなる理性的存在者も、目的として存在する。すなわちあれこれの意志が任意に使用できる単なる手段としてではなく、自分自身ならびに他の理性的存在者たちに対してなされる行為において、いついかなる場合にも同時に目的と見なされねばならない」とし、自然的欲求であるところの「傾向」からくるものではなく知的能力だけにとどまらない実践的能力としての「理性」を持った存在者、「理性的存在者」の本性を「人格」と定義し、「理性的存在者は目的自体として存在する」として、その主観的原理は自分以外の「理性的存在者」も同じ理性根拠に従って持っていると説く。よってこの主観原理は同時に客観的原理であり、意志を決定するいっさいの法則は、最高の実践的根拠としてのこの原理から導き出されなければならないとして「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない。」と結論づけている。つまりカントは、人間が「より善く生きたい。幸福になりたい。」と「目的」を持ち、そのための「知識」を得る能力のみならず「実践」する能力、人間の生き方を指示する能力を持つところの「理性的存在者」の人格に存在する「人間性」は、自分だけではなく、他の「理性的存在者」の人格にも例外なくすべて存在している。我々はその神聖なる「人間性」を無視して「手段」、つまり「意志に依る存在」や「理性的存在者の目的・念願」を持たない「物(物件)」として人を扱うこと禁めているのである。カントはこの後、「自分自身に対する義務」や「必然的な、或いは責任ある義務」など四個の実例をあげて説明しているが、私は私なりにこのカントの「答え」について考えて行きたい。 私は「答え」のなかにある「手段」(もちろん「問い」のなかにもあるが)という言葉の意味をいま一度考えてみたい。ひらたく言えば「手段」とは目的達成のために人を「道具」ように利用するということでもあるだろう。倫理学という「道徳の学」のなかにいま一度落とし込めば、そこにはどんな人間関係、社会状況が浮かびあがってくるだろうか。そして、そのなかで人が人を「道具」として扱うとはどんなことなのだろうか、思いつくままその人間関係、社会状況をあげてみたい。家族関係では、家長とその家族、親と子供、夫と妻、姑と嫁、兄と弟。社会的関係ではどうだろうか。国家と国民、会社と社員、上司と部下、先輩と後輩、得意先と納入業者、富裕者と貧困者など、時代が古ければ領主と領民、貴族と農奴、指揮官と兵隊、親方と職人、教会と信徒など、いずれも上下関係や支配関係が浮かびあがってくる。カントの道徳哲学は、どんなとき、どんなところで生まれたのであろうか。小牧治、1969『倫理学入門』(有信堂)を参考にしながら調べてみた。 カントは1724年、東プロセインの首都、ケーニスベルグで生まれている。ケーニスベルグは現在ロシア領で名前もカリーニングランドとなっている。小牧によれば、カントの生まれた家庭はキリスト教のプロテスタントの一派で内面的信仰を重んずるピエティスムスの信者の家に生まれ、その敬虔的内面的信仰の教えのもと、信仰深い母や牧師から強い影響を受け、後に内面的な動機(意志を決定する内面的根拠)を重視する道徳論をつくりあげていったという。 つぎにカントの生まれた十八世紀のケーニスベルグと東プロセインの社会はというと、他の西欧の国々と比べて近代化から立ち遅れており、まだグーヘルシャフトという領主に対する農民の隷従がきわめて甚だしい封建体制で、中世的市民意識、つまり親方が職人や徒弟を人格的に支配し、手工業者の組合(ツンフト)や商人団体(ギルド)の規制が厳しいなかでの市民的意識がただよっていた。小牧によれば、そのようなケーニスベルグでは自由な近代的個人の展開はまだ十分ではなく、内面的信仰を重んじるピエティスムスは、現実的な問題を内面的問題へまつりあげ、現実の政治的・経済的・社会的問題の改革等に対してははなはだ弱いものであったという。また、西欧諸国の「近代化」、産業革命やブルジョア市民革命の展開などの波は東にも押し寄せ、修正や改善を迫られた啓蒙君主フリードヒ大王(一世)の近代化改良も「上からの近代化」であり、そのような状況下でカント的道徳論は「以上のような『とき』と『ところ』の道徳的エートス(道徳的環境、道徳的雰囲気)の『自覚化』であり、同時に『改善的啓蒙』であり、『近代化的修生』であったのである」と小牧は結論づけている。確かにカントの唱えるところの、「人を決して単なる手段として使用してはならない」という背景が自分なりに理解できたと思う。また、自殺をしてはいけないという「自分自身への義務」は自分を手段化してはいけないことを、他人に偽りの約束をしてはいけないという「他人に対する必然的な、或いは責任ある義務」では他人の人格を無視して自分に都合のいい手段として利用してはいけない、といったことなどの考えに信仰の力が大きく働いたであろうということもわかった。ではこのカントのカント的道徳論は現代の私たちが置かれている状況のなかでどんなことを教えてくれるだろうか。 前述した人間関係、社会状況をもう一度あげてみよう。国家と国民、会社と社員、上司と部下、先輩と後輩、得意先と納入業者、富裕者と貧困者、いまの重要問題として企業と消費者、工場と住民などもあげなければならない。この度の東日本大震災によって引き起こされた福島原発問題に関する電力会社の情報操作など、住民、国民をないがしろにしたかのような一連の企業運営は、カント的道徳論をもって十分に諌められ正されるべきである。しかし、ここではより身近な問題として「大学」「就職」について考えてみたい。なぜなら今大学生である私たちにとって学問を学ぶところである「大学」そのものには上下関係、支配関係が希薄だからである。しかし数年後には卒業し、多くの学生が支配関係の有る無しは定かではないが、はっきりと上下関係がある「社会」「会社」「企業」「組織」のなかに入っていく。このコペルニクス的転回を数年後に控えた大学生たちにカント的道徳論は何を教えてくれるのだろうか。いやそもそも彼らに通用するのだろうか。 大学で授業を受けていて、講義中にもかかわらず騒々しかったり、はたまた居眠りならまだしも突っ伏して寝ている学生も多い。授業を企業における研修、講習、または会議、プロジェクトと考えると多くの学生は残念ながら「会社」「企業」で働く資質を持ち合わせてはいない。またカントの言うところの「理性的存在者は目的自体として存在する」というその理性的存在としての自己を問う学生、つまり「意志に依る存在」や「理性的存在者の目的・念願」を考える学生は少ないように思う。しかし、数年後には企業からの指示や要請もないのに就職活動において黒いスーツを誰もが着用し、まるで企業戦士の訓練生のような趣きで会社説明会に行き、就職試験を受けるなどの就職活動を行う。その姿は、自らを「理性的存在者」と見なさず、知的能力に実践能力をともなった「理性」を持とうとせず、せいぜい「傾向」という自然的欲求である範疇の片隅に存在しようしているように感じる。そもそも、受験戦争をくぐり抜け大学に入り、学問を得たかどうかは別として規定の単位を取得して卒業し、ある意味服従を表すかのような黒いスーツを来て就職活動をする、という一連の行為のなかには「意志に依る存在」や「理性的存在者の目的・念願」はあるのだろうか。いまこの大学にいる学生はどのような「目的・念願」をもっているのだろうか。「人よりも少しでもいい生活がしたい」から「人よりも少しでもいい会社」に入り、そのために「人よりも少しでもいい大学」に入る。もしかするとそれは自らを「理性的存在者の目的・念願」を持たない「物(物件)」と見なしていないだろうか。それは自らを「手段」として扱うという行為ではないだろうか。そしてそれは「自分自身に対する義務」の不履行、つまり「自殺」に等しい行為なのではないだろうか。 カントの生きた時代は前述したようにまだ封建制度が残っており、支配関係、上下関係が強い時代であった。ゆえに、人びとの持つ「意志」や「人格」が無視され道具として扱われることが多くあっただろう。しかし今は「自由社会」である。確かに「会社」「企業」は「組織」であるがゆえ上下関係が存在する。しかし、自らの「意志」や「人格」を持たない、自らが自らを「被支配者」の存在に落とし込んだかのような者を、「会社」「企業」は必要とはしていない。カントの「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない。」という言葉は今、大学生である人たちに向けて発せられなければならない。そして大学生たちは、まず「君自身の目的・念願」「君自身の人格」は何であるかを問わなければならないだろう。私はいま、そのことを同じく大学で学ぶ者として、また小さいながらも企業を経営する者として、切に願ってやまない。 # by torubadour | 2011-07-29 08:33
2011年 07月 28日
![]() 鶴岡八幡宮における神仏分離の流れ まず鎌倉八幡宮の別当・供僧が還俗した時期であるが、高柳光壽は「鶴岡八幡宮神佛分離事件報告」(『明治維新神佛分離資料 巻下』)で「なほ復飾の日時については文明ではないが、明治三年二月以前であったことは、當社所蔵の記録によって明である。」と述べているが、『鶴岡八幡宮年表』を調べると、明治元年十月、供僧・小別当復飾し、総神主・大禰宜と称す【鶴岡八幡宮一社明細書上】。とあり続いて、この月、復飾の供僧、国司遠江・武内司・香山大隅・加藤近江・相楽筑前・小別当大庭和泉、白川神祇伯家に入門す(十~十一月)【白川家門人帳】、とあり、慶応四年閏四月四日の太政官布告から約半年後に復飾したことがわかった。このときの十二院の供僧の様子はというと、「甚だ腑甲斐なき状態であった。餘裕のある生活が、早くから精進を嫌悪せしめて居たであろうけれども、復飾ということが、直ちに日來羨望して居った武士の姿となり両刀を挟み、肉食妻帯ができるといふので、一人の反對者もなく、寧ろ欣喜雀躍復飾改名し、社頭の分離を断行し、今まで僧侶であった身が、僧尼不浄の輩入るべからずと掲示し、甚しきに至っては、最勝院の加藤某が如き、これ幸ひと藤澤から遊女を迎えて妻としたということである。」と「鶴岡八幡宮神佛分離事件報告」(『明治維新神佛分離資料 巻下』)では静川慈潤の話を引用して、その一人の反対もなく、むしろ喜んで還俗した供僧たちの腑甲斐なく、あきれるような態度について述べている。また鈴木勝男は「鶴岡八幡宮の歴史」(『御鎮座八百年 鶴岡八幡宮』)で宝戒寺の住僧澄海の「彼等昨日三鈷を握った手で、今幣帛を執っているではないか。自ら僧尼不浄の輩入る可からずと掲示して、得々たるは何の意ぞ。数百年以来の神事はみな仏教の者に依って行はれたものである。彼等の言行は、先祖を侮辱し、恩義を忘却し、実に宗門の大罪人である。」と、還俗した供僧が神官になったとたん「僧尼不浄の輩」は神域に入ってはならないという掲示をしたことについて憤懣やるかたない思いであったことを紹介している。 鶴岡八幡宮の十二院の別当・供僧たちは還俗にあたり次のように改名した。 浄国院ー国司信成、正覚院―筥崎博尹、香象院ー香山良実、等覚院ー大島教義、 海光院ー海野俊雅、荘厳院ー武内康側、相承院ー相楽亮太、増福院ー増山尚義、 我覚院ー岡本忠義、最勝院ー加茂良和、恵光院ー野田信高、安楽院ー畠山嘉正 この改名について高柳は、全くでたらめな姓氏の付け方で、浄国院は国の一文字を取って国司と、相承院は相の一文字を取って相良と命名し、同じように、海光院は海野、増福院は増山、香象院は香山といった有様であり、また想像に過ぎないがとことわりながら、荘厳院の武内氏は別殿武内社の祭神、武内宿禰から、安楽院の畠山は畠山重忠から、また正覚院の筥崎氏も筥崎八幡宮から思いついたかも知れないと、その命名の成り行きの滑稽さを述べている。 また、その供僧たちが復飾還俗して新たに鶴岡八幡宮の神官身分になったときの役職名とその命名の顛末も滑稽である。鶴岡八幡宮の神主としては昔から長きにわたって大友氏が代々、神主を務めていた。十二院の供僧は、いままでは僧侶として神主の上の立場にいたが、還俗して神職になると、いままで見下していた大友氏と肩を並べるだけでも面白いことではなく、ましてや大友氏の下に立つことは到底堪えられないことであった。そこで彼等は大友氏の上に立つべく「総神主」という新たな名称を生み出した。そして神主一人の上に十二人の「総神主」が立つという奇妙な序列が生まれた。そうまでしても彼等は、神主より上の立場であった供僧であったことの自負心と、供僧であったときの権力を保持したかったのである(『鶴岡八幡宮年表』には、明治二年(1868年)の項の最後に月日を明記せず、元供僧十二名に神主許状が与えられ総神主と称し、小別当には大禰宜許状が与えられる【鶴岡八幡宮一社明細書上】とある)。しかし、急ごしらえで総神主になった元供僧たちは、慣れない神職勤めと八幡宮自体の財政困難などが影響して、神職をやめて小学校の教員になる者がいた。その他転職する者もいて、旧相承院の相良氏はふたたび髪を剃って僧侶となり、落ちぶれた者には豆腐売りや車夫になった者もいたという。八幡宮自体の財政困難の要因となったのは、「明治四年(1871年)一月五日、社寺領上知の令発布せられ、現境内内地を除く外、全て上知の旨、布告あり。【太政官布告第四号】」(『鶴岡八幡宮年表』)という通達のことであろう。上知とは政府に所領を上納することで、鶴岡八幡宮ではこのときの八幡宮境内の範囲を示した「鶴岡八幡宮明治四年境内絵図」(絵図 3)を作成している(この絵図は昭和四十二年四月に八幡宮が国史跡に指定された根拠ともなった)。その絵図を収めている『御鎮座八百年 鶴岡八幡宮』の解説には、「明治四年(一八七一)五月、神仏分離後の鶴岡八幡宮境内を描いた絵図である。下宮一帯をみると、神楽殿、若宮、いくつかの末社があるのみで、仁王門があった位置には鳥居が建ち、仏教関係の堂塔は全て取り除かれてある」とある。それでは鶴岡八幡宮ではどのような廃仏毀釈がおこなわれたのであろうか。江戸時代の絵図や外国人が写した写真などを利用しながら、その様子を掴んでみたい。 鶴岡八幡宮における廃仏毀釈 鎌倉八幡宮における廃仏毀釈は明治三年(1872)五月に行われた。それまで再三にわたり神奈川県庁からの催促があり、ついに総神主の筥崎博尹が代表して、次の届書を県庁に提出した。 御 届 書 鎌倉鶴岡八幡宮御社内在来之薬師堂、護摩堂、大塔、経蔵、鐘堂、仁王門、右混淆之仏堂取除キ、仁王門跡江華表取建、内廊三面、堀垣別紙絵図面之通修理仕候、以上。 鎌倉 鶴岡八幡宮一社惣代 明治三年五月 総神主筥崎博院 印 神奈川県御役所 こうして鶴岡八幡宮にあった薬師堂・護摩堂・大塔などの仏教関係の堂舎は、わずか十日ばかりで取り除かれた。取り壊された諸堂の材木は古材として売却されたり、近所の住民がわずかな金を払って境内に入り、銅板などを背にかついで持って帰ったという。そして取り除かれた仁王門のあとには華表(鳥居)が建てられた。 それでは神仏分離前の鶴岡八幡宮の姿をよく伝えているといわれる、享保十七年(1732)の境内絵図(絵図 2)と明治四年の境内絵図(絵図 3)を比べてみよう。享保十七年の境内絵図では、下宮にはそれ以前にあった回廊はなく、一段高いところに仁王門があり、それを入ると左手に七間四面の護摩堂(五大尊をまつり五大堂ともいわれた)、その背後に輪蔵(経蔵)(写真 ベアト47)があり、仁王門の右手には、大仏・大鳥居とともに当時の鎌倉の三名物の一つといわれた十間四面の大塔(多宝塔)(写真 ベアト45)があり、その奥に鐘楼があった。正面には舞殿(神楽殿)(写真 ベアト写真42, 46)があり、上宮に続く石段の右手に若宮拝殿本殿があり、さらにその右にはこれも十間四面の薬師堂(吾妻鏡等の記事では神宮寺、または神護寺。天正の指図では御本知堂)(写真 ベアト45)があった。上宮楼門外には左に愛染堂、右に六角堂があった(写真 ベアト44)。 次に明治四年の境内絵図を見てみよう。前述したように仁王門はなく、鳥居が建てられている。石垣と数段の石段によって高くなっている部分の遺構は現在でも残されているが鳥居はいまはもうない(写真 1. 2)。下宮の護摩堂・輪蔵(経蔵)・大塔(多宝塔)・鐘楼は取り壊され、上宮の愛染堂・六角堂も除かれた。 『維新神佛分離資料 巻下』には、仁王門は浦賀の某寺に移され、俗に浦賀の赤門と称されたと記されている。この門にあった仁王像は鎌倉市扇ケ谷の寿福寺に移り、本堂内に安置されたという。寿福寺を訪ねてみたが本堂のある境内に入ることができず確認はできなかった。 護摩堂には源実朝が奉納したという宋版の一切経(大蔵経)があったが、四天王寺像とともに東京浅草寺に移った。浅草寺に行かずに残された経巻は塔の辻で焼かれたという。浅草寺に行った一切経は、浅草寺版大蔵経五四二八巻として重要文化財に指定されたが、四天王像は昭和二十年に戦災で焼失した。 明治四年の境内絵図では仏教関係の堂舎が取り除かれたばかりなので下宮は広々とした空間となっているが、現在は大塔の跡地付近には参拝者のための直会殿(なおらいでん)や柳原休憩所が建てられている。その二つの施設の前の林となっている場所がちょうど大塔の跡ではないかと私は思う(写真 3. 4)。またこれも推測だが、ベアトが撮った舞殿(下拝殿、神楽殿)(写真 ベアト46)の写真に建物の礎石のような大きな石が写っているが、これと同じような石が現在も若宮と石段の間に置かれている(写真 5. 6)。もしかするとこれは大塔の礎石なのではないかと思った。この石は『100年前の横浜・神奈川 絵葉書で見る風景』のⅤ鎌倉、神社と寺院の ①鎌倉八幡宮の境内、という絵葉書でも見られる。上宮への石段の右脇に四角い穴の開いた大きな石が三個確認できる)。 下宮の薬師堂があった場所は明治18年にあたらしく白旗神社が建てられた。これは頼朝をまつって、もともとは上宮(本宮)の西にあった白旗社(絵図によっては頼朝社。)と裏参道の入り口の脇にあった実朝をまつる柳営社(実朝社)を合祀したものである。明治四年の境内絵図では、確かに下宮の薬師堂あとにはまだ社らしき建物は確認することはできない。墨で四角く枠取りされた若宮の右隣の細長い建物は、おそらくこの明治四年の境内絵図を元にして描かれたと思われる明治初期の「相州鎌倉絵図」によれば「御末社」と書かれており、やはり薬師寺の跡には建物はない。そして上宮の白旗社(頼朝社)が「伊勢両宮」となっている。これは「政教一致」=「伊勢神宮を頂点とした神道の統一」を物語るものであろう。次に明治二十九年出版の「相模国鎌倉名并江之島図」を見ると、白旗神社の名が見え、上宮の白旗社の跡地には建物が描かれていない。現在も建物はなく遥拝所のような空間になっていた(写真 7)ので社務所でたずねると、今は宇佐神宮の遥拝所となっているとのことだが、その経緯はわからないとのことであった。 先ほど述べた下宮の御末社には、天正指図を参考にすると鶴岡八幡宮と所縁の深い熱田社(頼朝はの母は熱田神宮の宮司の娘である)、三島社(頼朝が幽閉された伊豆の一宮)などがまつられていたようだが、それもいまはなく、いつなくなったかもさだかではないようだ(社務所でたずねたことに対してほとんどがわからないとの答えだったが、私には社務所の方の不勉強のように感じた)。 もう一度明治二十九年版の絵図に目をやると、白旗神社の前の様子が今までの絵図とはかなり違っている。楕円形の競馬場のコースのようなものがつくられ、その上部分を横切るように流鏑馬馬場(小路)と思われる一直線の道がある、しかし仁王門跡の鳥居のところで途切れており西ノ鳥居から参道に伸びる道とは享保十七年の境内絵図のように直線でつながってはいない。流鏑馬神事とともに競馬(くらべうま)というのもあったようでそれに使われたのであろうか。江戸時代には旗本の家来などが鎌倉まで訓練を目的をとして馬で駆けてくることも多々あったようで、寒村と化してしまったが、鎌倉は武士の都、鶴岡八幡宮は源氏の御社という想いがあったのだろう。そのよい例がある。明治五年十一月、陸軍は鎌倉を演習地として適当であるかどうかを調査し、翌明治五年の四月十五日、わが国最初の陸軍攻撃演習が鎌倉で行われた。この演習に際して明治天皇が行幸し、鶴岡八幡宮の背後にある大臣山の野立所から統監した(この演習は、若宮大路をはさみ実弾を撃ちあったという。いまからは想像できないことだが、それほど当時の鎌倉の寒村ぶりを表しているといえよう)。明治天皇の行在所は総神主筥崎博尹宅であった。明治天皇は翌十六日、鎌倉宮に参拝した。維新政府は神仏分離の一方、かつての南朝功臣の神格化をすすめ、鎌倉では、1869年(明治2年)、中先代の乱(1335年)で鎌倉幽閉中に殺害された護長親王をまつるため、その終焉の地である旧東光寺跡に「鎌倉宮」が創建されていたのであった。(くだって1881年(明治14年)、元弘の乱(1331年)の翌年に鎌倉で斬殺された日野俊基を祀る「葛原岡神社」も創建された。) 以上、鶴岡八幡宮における神仏分離と廃仏毀釈をみてきたが、鶴岡八幡宮は神仏分離、廃仏毀釈によりその景観が大きく変わったことがわかった。それは鶴岡八幡宮寺が、鶴岡八幡宮へとあらたに創建されたかのような出来事だったのである。 さいごに このレポートを書くにあたってまず自分の歴史に対する知識の蓄積の少なさを知った。当初は「日本橋」、特に「魚河岸」についてレポートを書こうと思っていたが、鶴岡八幡宮の廃仏毀釈を知り、鎌倉に住み、多少なりとも鶴岡八幡宮と所縁のある私は「魚河岸」の前にもう一本「鶴岡八幡宮」のレポートを書いてみようと思った次第だが、調べていくうちに大変なことになったと思い知った。まずは鶴岡八幡宮を語るにも源氏の歴史、宇佐八幡、石清水八幡の歴史、鶴岡八幡宮と平泉と浄土庭園のつながり、各時代の支配者たちとの関係などをあらためて調べると、新しく知ることが非常に多かった。また神仏分離に関して各地の神仏分離の流れ、特に幕末以前に神仏分離をすすめた水戸藩や神仏分離の急先鋒となった津和野藩や薩摩藩などの例、あっさりと神仏分離がおこなわれた興福寺や激しい廃仏毀釈のあった日吉神社などの例や、神奈川においても「江の島」も「大山」も廃仏毀釈があったことなどを知り、それらのことをこのレポートに書きたかったが果たせなかった。神仏習合についてもまだまだ調べるべきだったと思う。特に江戸時代の仏教寺院と葬祭についてはこれからも勉強していきたい。郷社などの民間宗教の神社も政教一致の流れのなかで合祀されたり、なくなったりして、民間宗教の行事などが途絶えてしまったりしたという。そういうこともきちんと知っておきたい。また江戸時代の末期の「おかげまいり」の流行が政教一致の政策の頂点に伊勢神宮を置いた一因になったかもしれないということ、新興宗教の流行から天皇を現人神に押し上げる着想を得たのかもしれないなど興味のある説があることも知った。今後も勉強していきたい。鶴岡八幡宮の神仏分離では、別当・供僧十二院の住居跡についてもこのレポートに書きたかった。十二院は当初二十五あったので住居跡は「二十五坊」と呼ばれ、八幡宮の西の裏手にある。訪ねてわかったのだが、その御谷(おやつ)と呼ばれる「二十五坊」の跡地は鎌倉の古都保存法制定のきっかけとなった地であった。そこには、大規模宅地開発の計画に反対し遺跡を保存する法律制定の住民運動をしたという新しい歴史があった(写真 8~10)。また供僧たちの墓は松源寺という今は廃寺になってしまった寺だったそうだが、八幡宮南の西端の近くにある「鉄の井」のあたりではと思い、あたりの地形から川喜田映画記念館がその跡地ではないかと館員の方にたずねたら、記念館に関する雑誌のなかから松源寺について書かれた記事を探してくださり、やはりそこが松源寺の跡だと確認できた(写真 13. 14)。因みに明治になっての最初の宮司筥崎博尹の墓も最初はここにあり、廃寺となるとき寿福寺に移されたとのことである。 長くなってしまった。今回の神仏分離がおこなわれた背景にキリシタン信仰の影響が垣間見えたり、廃仏毀釈には江戸時代の宗教政策のほころびや、時代の変革期に起こる熱病のような感情の高まりが大きな要因になったであろうこともわかった。知るということに尽きるということはないと実感している。日本文化史という講義を受講して毎週知的興奮を味わっている。ますますこれからも心して学んでいきたいと思った。 追記 このレポートを終えたあとに『鎌倉市文化財資料第7集 としよりのはなし』を読み、興味深い記事を二つ見つけたので紹介しておきたい。この本は、鎌倉の各地域の老人たちの話しで構成された、民俗資料として価値の高いものである。 鶴岡八幡宮のある雪の下地区の古老の話では、明治十年代の話しとして「そのころの鎌倉は疲弊しきっていて、八幡さまなんか荒れ放題だった。境内は社務所らしいもののそまつな建物が、仁王門の際にあって、境内は競馬場になって、馬券売場があり、また自転車競争もやった。源平池をまわるのだった。やぶさめもあったが、九月の祭りに十二所の牛馬商人が頼まれて白い衣装(白丁)をきてトコトコ馬を歩かせて、矢を射るだけのことだった。それでも見物人は集まったね。(略)神主も三人くらいしか居なかった。お宮の左側にちっちゃな小屋があって、そこに神主がいたようだ。(略)いまの段葛に桜を植えたのはたしか日露戦争後だったナ。そえまでの段葛には松や梅のほか、えぼたなどの雑木があっちこっちに生えていた。観光客もくるようになって、むさ苦しいから綺麗にしたら、というので、それをひっこいで、育ちのいい桜にしたら、花見もできる、というので、桜の苗木を植えた。そしたらそれが折られちゃったので、四、五年たってから、こんどは背の届かねえような若木にかえた。それが育って段葛が桜の名所になった。また同じく雪の下の項に、「筥崎氏の葬儀」の記事がある。「八幡宮の初代宮司筥崎博尹の葬儀には、伊勢の大神宮より鎌倉寄り、さらに東北地方からの神主は全部参列して、とても盛大で、参列の神主には往復旅費から手当までのこころづけをしたそうである。この初代宮司は白旗宮の祭礼を一回行うことになっているのを、さらに一回自費で行い、毎年二回ずつ施行したりして、とても立派に祭典をしたという事で、そのため全財産を、消費してしまったというので、当時有名な神主であったという。この筥崎氏の墓は、現在、岩井堂の一六番地の川喜田氏のところにあったが、わたしの子供のころ松源寺が廃寺になって、墓が他にうつされたので、筥崎氏の墓は寿福寺に移された。随分大きな立派な墓である。」引用が長くなったが歴史書では知ることのできない庶民から見た歴史が語られていて、まさにそのときの情景が目に浮かぶようである。しかし、明治二十九年の絵図にあった八幡宮の境内の楕円形の競馬場のコースのようなものは、八幡宮の祭事としての競馬(くらべうま)ではなく催事としての賭け事の競馬だったとは驚きである。段葛が桜並木になった経緯も面白いし、なんといっても松源寺が今の川喜田映画記念館にあったことの裏付けが取れたことが嬉しかった。 参考文献 <神仏分離・廃仏毀釈・日本史> 田中彰、1987『明治維新観の研究』北海道大学図書刊行会 安丸良夫、1979『神々の明治維新』岩波新書 圭室文雄、1977『神仏分離』教育社歴史新書 井上清、1965『日本の歴史 中』 <鎌倉> 松尾剛次、2005『鎌倉 古寺を歩く 宗教都市の風景』 河野眞知郎、1995『中世都市鎌倉』 松尾剛次、1993『中世都市鎌倉の風景』吉川弘文館 五味文彦編、1992『中世を考える 都市の中世』(「一 中世都市・鎌倉」松尾剛次) 網野善彦・石井進・福田豊彦、1989『よみがえる中世3 武士の都 鎌倉』平凡社 川添昭二、1978『鎌倉文化』教育社歴史新書 鎌倉市、1989『市制施行五十周年記念 図説鎌倉年表』鎌倉市 稲葉一彦、1982『「鎌倉の碑」めぐり』表現社 御所見直好、1975『鎌倉史話散歩』秋田書店 鎌倉市教育委員会、1961『鎌倉市文化財資料第7集 としよりのはなし』鎌倉市教育委員会 渋江次郎編、1960『鎌倉国宝図録⒄ 鎌倉の古絵図⑶』鎌倉市教育委員会・鎌倉国宝館 <鶴岡八幡宮ー神仏分離・廃仏毀釈> 加藤理、2002『<古都>鎌倉案内』洋泉社 関口欣也、1997『鎌倉の古建築』有隣堂 貫達人、1996『鶴岡八幡宮寺ー鎌倉の廃寺』有隣堂 三浦勝男、1968「鶴岡八幡宮と神仏分離」(三浦古文化研究会『三浦古文化 第4号』京浜急行電鉄株式会社) 高柳光壽、1928「鶴岡八幡宮神佛分離事件報告」(村上専精・辻善之助・鷲尾順敬編、1928『明治維新 神仏分離資料 巻下』東方書院) 静川慈潤、1928「明治初年の鶴岡八幡」(村上専精・辻善之助・鷲尾順敬編、1928『明治維新 神仏分離資料 巻下』東方書院) 地方史研究協議会編、1999『都市・近郊の信仰と遊山・観光』(「大山の神仏分離」手中正) <鶴岡八幡宮ー社史・案内> 鶴岡八幡宮・宮司白井永二、1996『鶴岡八幡宮年表』鶴岡八幡宮社務所 鶴岡八幡宮、1991『御鎮座八百年 鶴岡八幡宮』鶴岡八幡宮(「鶴岡八幡宮の歴史」三浦勝男) 貫達人、1976『鶴岡八幡宮』中央公論美術出版 鶴岡八幡宮社務所、年代不詳(推定1970~80年代)『鶴岡八幡宮』鶴岡八幡宮社務所 鎌倉市史編纂委員会、1959『鎌倉市史 社寺編』吉川弘文館 <仏教関係> 末木文美士、2010『近世の仏教 華ひらく思想と文化』吉川弘文館 末木文美士、2006『日本宗教史』岩波新書 柏原祐泉、1990『日本仏教史 近代』吉川弘文館 <神道関係> 小澤浩、2004『民衆宗教と国家神道』山川出版社 國學院大学日本文化研究所編、1994『神道事典』弘文堂 吉成勇編集、1990『別冊歴史読本・事典シリーズ<第9号> 日本「神社」総覧』新人物往来社 <十二院・二十五坊> 木村彦三郎、1991『鎌倉近代史資料第五集 鎌倉の社寺門前町』鎌倉市教育委員会・鎌倉市中央図書館 鶴岡八幡宮境内遺跡発掘調査団、1987『鶴岡八幡宮境内遺跡発掘調査報告Ⅱ ー鶴岡文庫建設に伴う鶴岡八幡宮二十五坊の調査ー』 鈴木千歳、1974「鶴岡八幡宮別当坊」(『鎌倉 第二十二号』沢寿郎編集発行) <その他> 原淳一郎、2011『江戸の寺社めぐり 鎌倉・江ノ島・お伊勢さん』吉川弘文館 北川宗忠、2002『観光・旅の文化』ミネルヴァ書房 ヒュー・コータッツィ、中須賀哲朗訳、1988『維新の港の英人たち』中央公論社 横浜開港資料館編、2006『F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと』明石書店 横浜開港資料館編、2006『F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本』明石書店 横浜開港資料館編、1999『絵葉書でみる風景 100年前の横浜・神奈川』有隣堂 金井圓編訳、1973『描かれた幕末明治 イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』 <相模鶴岡八幡宮大塔> http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_turugaoka.htm # by torubadour | 2011-07-28 12:28
2011年 07月 28日
![]() 写真のせれるかなあ。あ、文字数多いので分割だわ。 幕末明治期における神仏分離と廃仏毀釈 ー鎌倉・鶴岡八幡宮を例にとってー はじめに 神仏習合や廃仏毀釈についての多少の知識は持ち合わせてはいたが、先日の授業で鎌倉の鶴岡八幡宮における廃仏毀釈が、その代表例にもなるような大きなものだったことを知り驚いた。神仏分離、廃仏毀釈とはなんだったのか、また鶴岡八幡宮においてどのような神仏分離、廃仏毀釈がおこなわれたのか、強く興味を持った。私は日本文化史Aの期末レポートして、幕末明治期における神仏分離と廃仏毀釈と、鎌倉・鶴岡八幡宮での例をテーマに選び、神仏分離から廃仏毀釈へと展開した流れとその実際を調べてみたい。 神仏分離と廃仏毀釈 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)王政復古の大号令において「諸事神武創業ノ始ニ基キ」と神武天皇による国家の創業に明治維新の理念を求めるべきとの国学者玉松操の主張が入り、慶応四年三月十三日(1868年)の太政官布告によって、「祭政一致」と神祇官再興と全国の神社・神職の神祇官付属が定められた。そして同年三月十七日の神祇官事務局達では、「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候」と神社において別当・社僧などと称して神勤している僧職者の復飾、つまり還俗が命じられ、同年四月四日には別当・社僧は還俗の上、神主・社人などと改称して神勤し、それに不得心の者は立ち退くよう命じられた【太政官布告第二八〇号】。 このようにして「祭礼一致」により神権的天皇制を確立するための神仏分離政策であったが、慶応四年三月二十八日、礼拝対象についての神仏分離が定められた【太政官布告第一六九号】。 一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ称候神社不少候。何レモ其神社之由緒委細ニ書付、草草可申出候事。 一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事。 附、本地抔ト唱ヘ仏像社前ニ掛、或ハ鰐口・梵鐘・仏具等之類差置候分ハ、草草取除可申事。 一、古くから某権現・牛頭天王などと呼ばれている神社、あるいは仏教的用語を神号につけている神社は少なくない。いずれもその神社の由緒を詳細に書き付け早速申し出るように。 一、仏像を神体としている神社は、今後神体をとりかえるようにすること。 附、本地などと唱えて仏像を神社の前に掛けたり、仏教の用具である鰐口・梵鐘を置いているところは早速取り除くべきこと。 慶応四年三月十七日の「神祇事務局ヨリ諸社ヘ達」では仏教寺院から神主の身分を独立させることがこの時の主な目的であったが、この同年三月二十八日の「神祇官事務局達」では神号・神体から仏教色を一掃することが目的であった。つまり,何々権現・牛頭天王などといった神仏混淆的な神号を一掃し、神号の変更などをして改めて神号を布下した。また、仏像を神体にするという例が「神仏習合」の習わしから多くあり、そのような仏教的色彩をもつものすべてを境内から取り除くようにとの通達で、仏具である鰐口は鈴に取って変えられたりした。 この布告をきっかけに「廃仏毀釈」という仏教色を強引に排除する破壊的行為が日本各地で起きた。境内諸堂にある仏像・仏具・経巻などの什物や堂舎がとり除かれ、焼かれたり壊されたり、捨て値同然で売り払われたりした。 慶応四年(1868)四月十日、神仏分離令が廃仏毀釈運動に発展していくことに対する警告の「太政官布達」が出された。 諸国大小之神社中、仏像ヲ以テ神体ト致シ、又ハ本地抔ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或イハ鰐口、梵鐘、仏具等差置候分ハ、早早取除相改可申旨、過日被仰出候、然ル処、旧来、社人僧侶不相善、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共我ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ実ハ私憤ヲ斉シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨ヲ生シ候而巳ナラス、紛擾ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜ヲ考ヘ、穏ニ取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノ道ヲ可失、益国家之御用相立候様、精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具取除候分タリトモ、一々取計向伺出、御指図可受候、若以来心得違致シ、粗暴ノ振舞等有之ハ、屹度曲事可被仰出候事、但 勅祭之神社、御震翰、勅額等有之向ハ、伺出候上、御沙汰可有之、其余ノ社ハ、裁判所、鎮台、領主、地頭等ヘ、委細可申出事、 (略)古くから社人と僧侶は仲がよくなく氷と炭のような間柄であったが、このところ社人たちが急に権威を得て、表向きには新政府の意向であると称して、その実私憤をはらすようなこと起きているというが、それは御政道の妨げになるだけではなく、必ずもめごとを引き起こすことになる。(略) このような通達が出たされたということは、神官となった人たちを中心とした激しい排仏運動が行われていたことがうかがえる。神仏分離は直ちに廃仏を意味するわけではなく、神仏習合の寺社から仏教色を取り除く神仏判然を目的としていた。江戸時代において徳川幕府の宗教政策による寺請制度・檀家制度、本末制度によって仏教寺院が優勢であり、神仏集合における神社の社人たちは低い地位に甘んじていた。その私憤がこのような神仏分離令を機に噴き出したのであろう。だが廃仏毀釈の運動はそういった社人たちのみで行われたのではなく、国学者の台頭、藩主・藩令の意向、宗教制度のなかの仏教に対しての民衆の不満などがその原動力となった。また「御一新」という時代の大きな転換期に、新政府は「王政復古」の意義を正当化するため天皇を現人神にまつりあげ、伊勢神宮を頂点とした新しい宗教支配政策を打ち出し、民衆は「一新」に「世直し」や「世均し」を共鳴させ「一揆」や「打ちこわし」と同じような感覚に陥ったのかもしれない(井上清『日本の歴史 中』によれば、新政府による幕藩体制の廃止、天皇制国家の建設の諸改革をひっくるめて、当時の人は「御一新」とも「王政維新」ともいった。後世これを、当時の年号とむすびつけて「明治維新」という、とある)。 もう少し、神仏分離に関する通達を見てみよう。前述したように、慶応四年閏四月四日の「太政官達」で、別当・社僧還俗の上は、神主・社人と称すべきことと定められた【太政官布告第二八〇号】。 今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗ノ上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、 この度の大小の神社において神仏混淆のことは禁止になったので、別当・社僧であった人たちは、還俗のうえ、神主・社人などの称号に変えて、神道を以て勤めるようにしなさい。もしさしかえがあったり、仏教信仰のため還俗に納得できない者は神道の務めを止めて、立ち去ること。 また慶応四年閏四月十九日の「神祇事務局達」では、神職にある者はその家族に至まで神葬祭に改めるべきと定められた【神祇事務局第三三〇号】。 神祇事務局ヨリ諸国神職ヘ達 一、神職之者ハ、家内ニ至迄、以後神葬相改可申事、 一、今度別当社僧還俗之上者、神職ニ立交候節モ、神勤順席等、先是迄之通相心得可申事、 一、神職にある者は、家内にいたるまで、以後神葬に改めるべきこと。 一、(略) 江戸時代は、葬祭は仏式によって執り行われていた。神主・社人も例外ではなく、葬祭は仏式で墓も寺にあったのである。これはキリシタン禁制に端を発した「寺請制度」が「宗門人別改帳」を生み、「檀家制度」に発展し、寺院と檀家の関係が固定され、寺は葬祭寺院としての性格を強めていったからである。また檀家はこの制度により経済的圧迫を受け、葬式や法事を中心とした寺院の僧侶は教義を忘れ堕落していった。このようなことが「神仏分離」や「廃仏毀釈」の大きな要因になっていると考えられる。 神葬祭については明治十五年に、神官は国家の宗祀たる神社に専念する故をもって、葬儀に関与することが禁じられるが、府県社以下の神官は当分従前のとおりとされたので昭和二十年の敗戦まで続いていたようである。参考に書いておくが、『描かれた幕末明治 イラストレイテッド・ロンドン・ニュース 日本通信1853ー1902』に、明治十一年に暗殺された内務卿大久保利通の神葬祭による国葬の様子が伝えられている。要約すると、30人もの神官がゆるやかな白い長い上衣を着て、大久保の遺骸を収めたお宮のようなものを担ぎ、墓地内の仮小屋に入っていった。お宮、つまり棺の前で3人の神官が、ひれ伏したりその他の身振りをしながら呪文のようなものを唱えた。その間、笙と横笛が物悲しい音楽を奏でた。参列者は榊を捧げ、柏手を打つ等して故人に別れを告げた。といった様子であった(資料 1)。 鶴岡八幡宮寺から鶴岡八幡宮へ 江戸時代までの鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮は源頼義が前九年の役の戦勝を記念して、康平六年(1063年)に鎌倉由比郷、いまの材木座一丁目の元八幡の地にひそかに石清水八幡宮を勧進し由比若宮としてまつったことにはじまると伝えられている。 治承四年(1180年)鎌倉入りをはたした源頼朝はその由比若宮社を小林郷の北の山(現在の下拝殿付近)に遷座した。建久三年(1192年)、火事にて拝殿を焼失したが、すぐに現在の上宮の地に建立し、正式に石清水八幡宮を勘定して本宮とし、若宮は下宮と称されるようになった。祭神は応神天皇(誉田別神)・本地阿弥陀如来、神功皇后・本地観音菩薩、比売神(応神天皇妹)・本地勢至観音であり、平安時代より展開された「神仏習合」「本地垂迹」の神社であった。そして承元二年(1208年)三善善信(康信)を惣奉行として八幡宮に神宮寺が建てられた。これが後の本地堂・薬師堂である。つまり、鶴岡八幡宮は建立された当時から神仏習合の「鎌倉八幡宮寺」であったのである。そして「鎌倉八幡宮寺」において僧侶は供僧と呼ばれ、そのなかでの最上位の者を別当と呼んだ。そして別当・供僧は神官より上の立場の者として明治になるまで多少の浮き沈みを経ながらも権勢をふるった(因みに、三代将軍源実朝を暗殺した、二代将軍源頼家の子である公暁は、第四代別当であった)。 時代はくだって天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は会津に向かう途中に鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮に参詣した。翌天正十九年(1591年)、鶴岡八幡宮の修営を約束し、徳川家康にそれを命じた。そのときの指図書が、天正指図とも呼ばれる「豊臣秀吉奉行等加判造営指図」(絵図 1)である。この図の特徴は、「しゅり(修理)」「あたらしく」などと朱で注記され工事の概要や、天正指図が描かれた以前の様子をうかがい知ることができる。下宮には若宮を取り囲むように廻廊があり、上宮、下宮とも廻廊を持つ社殿配置だったことがわかる。赤橋、内の鳥居には「あたらしく」とかいてあるので、その当時はなくなっていたのだろう。 家康は全体の造替工事が終わらないまま他界したのでこの計画は秀忠に引き継がれた。元和七年(1622年)に造営をはじめ、寛永元年(1624年)上・下宮が修造されて正遷宮が行われ、、つぎに二王門(仁王門)・大塔・護摩堂・輪蔵(経蔵)・薬師堂・神楽堂(神楽殿、下拝殿)・愛染堂・六角堂などがつくられ寛永三年に完成した。その様子は、享保十七年(1732)の「鶴岡八幡宮境内図」で知ることができる。しかし、このときの造営で、下宮の廻廊などが姿を消し、大塔(多宝塔)、神明宮があたらしく造られた。また、南大門は二王門(仁王門)、五大堂は護摩堂、神宮寺(本地堂)は薬師堂と名称を改めた。これによって鶴岡八幡宮はその面目を一新し、近世の八幡宮の姿が決定した。その盛観な様相は、享保十七年(1732)の「鶴岡八幡宮境内図」(絵図 2)で知ることができる。 以上の絵図で神仏分離、廃仏毀釈の前の鶴岡八幡宮の姿を知ることができた。天正、寛永の絵図以外にも、江戸時代には寺社参詣や名所遊覧で鎌倉や江の島を訪れるひとびとのためにたくさんの絵図が発行された。それらを参考資料として添付しておく。 それではつぎに鶴岡八幡宮における神仏分離と廃仏毀釈を見ていきたい。 # by torubadour | 2011-07-28 12:26
2011年 03月 18日
"LOKAHI A KULIKE"(共に助け合うことで、自然に生れる調和と融合を大切に) みんなで歌い、奏で、祈ろう。 3月19日午後6時より(時間変更しました)@祖師谷大蔵・ムリウイhttp://www.ne.jp/asahi/cafe/muriwui/
![]() # by torubadour | 2011-03-18 17:40
2011年 02月 05日
参考資料:
井崎博之著、1985年「エノケンと呼ばれた男」講談社 色川武大著、1994年「なつかしい芸人たち」新潮文庫、総ページ 401 牛島秀彦著、1979年「もう一つの昭和史④ 浅草の灯 エノケン」毎日新聞社、総ページ 243 加藤泰著、1985年「映画監督 山中貞雄」キネマ旬報社、総ページ 346 岸井良衛著、1977年「大正の築地っ子」青蛙房、総ページ 236 岸井良衛著、1981年「ひとつの劇界放浪記」青蛙房、総ページ 328 斎藤憐著、1983年「昭和のバンスキングたち ジャズ・港・放蕩」ミュージック・マガジン、総ページ 262 定成寛著、2001年「二十一世紀ジャズ読本」ブックマン、総ページ 270 砂古口早苗著、2010年「ブギの女王 笠置シヅ子」現代書館、総ページ 270ページ 瀬川昌久・大谷能生著、2009年「日本ジャズの誕生」青土社、総ページ 251 高峰秀子著、1998年「わたしの渡世日記 上」文春文庫、総ページ 367 高峰秀子著、1998年「わたしの渡世日記 下」文春文庫、総ページ 396 東京喜劇研究会編、2003年「エノケンと<東京喜劇>の黄金時代」論創社、総ページ 314 中原弓彦著、1972年「日本の喜劇人」晶文社、総ページ 303 中村喜春著、1983年「江戸っ子芸者一代記」草思社、総ページ 230 早津敏彦著、1983年「灰田有紀彦/勝彦 鈴懸の径」サンクリエイト、総ページ 318 原健太郎著、1994年「東京喜劇 <アチャラカ>の歴史」NTT出版、総ページ 444 原健太郎・長瀧孝仁著、1995年「日本喜劇映画史」NTT出版、総ページ 333 古川ロッパ著、1997年「あちゃらか人生」日本図書センター、総ページ 250 古川緑波著、1995年「ロッパの悲食記」ちくま文庫、総ページ 233 本庄慧一郎著、2009年「幻のB級! 大都映画がゆく」集英社新書、総ページ 219 丸橋嗣郎著、2005年「私の活狂時代 上巻<戦前編>」文芸社、総ページ 347 三木鶏郎著、1954年「冗談十年 上巻」駿河台、総ページ 322 三木鶏郎著、1994年「三木鶏郎回想録② 冗談音楽スケルツォ」平凡社、総ページ 564 付属CD「三木鶏郎傑作選」平凡社、1994年 毛利眞人著、2010年「ニッポン・スウィングタイム」講談社、総ページ 317 森岩雄著、1975年「私の藝界遍歴」青蛙房、総ページ 387 矢野清一著、2001年「エノケン・ロッパの時代」岩波新書、総ページ 212 有遊会編、1992年「東京芸人爆笑帳 おかしな芸人行状記」三一書房、総ページ 255 四方田犬彦著、2000年「日本映画史100年」集英社新書、総ページ 260 「レコード・コレクターズ 創刊号」(瀬川昌久、”戦前の日本人ジャズ・シンガーたち”)昭和57年(1982)4月20日発行 DVD「土俵祭」大映、1944年(監督:丸根健太郎、脚本:黒澤明、主演:片岡千恵蔵) DVD「躍る竜宮城」松竹、1949年(監督:佐々木康、主演:並木路子) DVD「銀座カンカン娘」新東宝、1949年(監督:島耕二、音楽:服部良一、主演:高峰秀子、笠置シヅ子) DVD「バナナ娘」新東宝、1950年(監督:志村敏夫、原作:サトウ・ハチロー、主演:並木路子) DVD「腰抜け二刀流」新東宝、1950年(監督:並木鏡太郎、主演:森繁久彌) CD「シング・シング・シング~昭和のジャズ・ソング名唱選」(ライナーノート:瀬川昌久)ビクターエンタティメント株式会社、2001年 CD「スイング・ニッポン~日本のメロディをジャズで」(ライナーノート:瀬川昌久)ビクターエンタティメント株式会社、2001年 CD「アロハ・オエ~ハワイアン・イン・ジャパン(戦前編)」(ライナーノート:山内雄喜)ビクターエンタティメント株式会社、2000年 CD「リズムの変遷~日本ラテン傑作編 1931 - 1957」(ライナーノート:瀬川昌久)株式会社ビクターエンタティメント、1999年 CD「KALUA KAMAAINAS 幻のハワイアン1&2」(ライナーノート:山内雄喜)株式会社オーマガトキ、2005年 CD「ビクターレコーディングス ① 1928~1937」ビクターエンタティメント株式会社、2008年 CD「戦中歌年間 ② 昭和12~13年」ビクターエンタティメント株式会社、2006 年 CD「古川ロッパ傑作集」コロンビアミュージックエンタテイメント株式会社、2010年 CD「昭和を飾った名歌手たち(14)ガード下の靴みがき 宮城まり子」ビクターエンタティメント株式会社、1999年 綺堂事物 綺堂ワークス「綺堂と弟子たち」http://kidojibutsu.web.fc2.com/contents/deshi.html 写真ライフ 「懐かしの昭和20年代/銀幕のスタアたち②」 http://forest-baku.blog.ocn.ne.jp/aozora/2010/11/post_de54.html タカラヅカ☆キラキラ人脈 「昭和元年~9年」 http://takarazuka.yumekandou.net/index2.htm 日本映画データベース 「岸井明」 http://www.jmdb.ne.jp/person/p0067510.htm ONTV・MOVIE 「岸井明作品リスト」 http://movie.ontvjapan.com/MovieSearch/person.php?person_nid=116531&target=actor キネマ旬報映画データベース 「岸井明」 http://www.kinejun.jp/people/岸井明/id/110730 # by torubadour | 2011-02-05 10:37
2011年 02月 05日
岸井明 出演作品リスト
001. 1931/01/08 「吹けよ春風」日活太秦 *田坂具隆監督 002. 1931/05/22 「少年軍(村の少年)」日活太秦 …小山先生 *長倉祐孝監督 003. 1931/06/23 「玉を磨く」日活太秦 *熊谷久虎・渡辺孝・毛利三郎監督 004. 1931/08/14 「五人の愉快な相棒」日活太秦 …ボデちゃん *田坂具隆監督 005. 1931/12/31 「水野十郎左衛門」千恵プロ …五大力 *清瀬英次郎監督、片岡千恵蔵 006. 1932/02/05 「海の横綱」日活太秦 *木藤茂監督 007. 1932/05/13 「陽気のせいだよ」日活太秦 …コック *竹久新監督 008. 1932/06/17 「春と娘」日活太秦 …豊作 *田坂具隆監督、島耕二 009. 1932/10/20 「無軌道市街」日活太秦 …高砂屋陣十郎 *伊奈精一監督、田村邦男 010. 1932/00/00 「霧の夜の客間」日活太秦 *三枝源次郎監督 011. 1933/06/10 「ほろよひ人生」P.C.L. *木村荘十二監督、藤原釜足、千葉早智子、古川緑波 *音楽:兼常清佐・紙恭輔・奥田良三 012. 1933/11/23 「純情の都」P.C.L. *木村荘十二監督、千葉早智子、藤原釜足、竹久千恵子、堤眞佐子 *音楽:紙恭輔・奥田良三 013. 1934/03/15 「踊り子日記」P.C.L. *矢倉茂雄監督、大川平八郎、千葉早智子 014. 1934/10/25 「エノケンの魔術師」P.C.L. …ギャング乾分 *木村荘十二監督、榎本健一、中村是好、藤原釜足、二村定一 *音楽:紙恭輔 015. 1935/03/01 「乙女ごごろ三人娘」P.C.L. …客 *成瀬巳喜男監督、細川ちか子、堤真佐子、梅園竜子 *原作:川端康成「浅草の姉妹」 *音楽:紙恭輔 016. 1935/05/11 「すみれ娘」P.C.L. *山本嘉次郎監督、堤真佐子、藤原釜足、リキー宮川 *音楽:紙恭輔 017. 1935/07/12 「三色旗ビルディング」P.C.L. …見習いコック三吉 *木村荘十二監督、神田千鶴子 *音楽:池譲 018. 1935/08/11 「唄の世の中」P.C.L. *伏水修監督、藤原釜足、神田千鶴子、渡辺はま子 *音楽:鈴木静一 019. 1935/10/01 「おほべら棒」P.C.L. …龍公 *岡田敬監督、藤原釜足、清川虹子 020. 1936/10/24 「からくり歌劇」日活多摩川 …コックの敬さん *大谷俊夫監督、岸井明主演、神田千鶴子、藤原釜足、ディック・ミネ、藤山一郎 *原作:サトウ・ハチロー 脚色:菊田一夫 *音楽:古賀政男 021. 1936/12/01 「東京ラプソディ」P.C.L. *伏水修監督、藤山一郎、椿澄枝、伊達里子、星ひかる、星玲子 *音楽:古賀政男 *主題歌:藤山一郎「東京ラプソディ」作詞:門田ゆたか 作曲:古賀政男 022. 1936/12/20 「新婚うらおもて」P.C.L. *山本嘉次郎監督、藤原釜足、竹久千恵子、神田千鶴子、小林千代子 *音楽:谷口又士 023. 1937/02/01 「風流演歌隊」P.C.L. *伏水修監督、藤原釜足、竹久千恵子、神田千鶴子 *音楽:清田茂 024. 1937/03/01 「うそ倶楽部」P.C.L. *岡田敬監督、藤原釜足、英百合子、小唄勝太郎、沢村貞子 *音楽:谷口又士 025. 1937/04/14 「ハリキリ・ボーイ」P.C.L. *大谷俊夫監督、古川緑波、三益愛子、藤原釜足、能瀬妙子、徳山璉 *音楽:鈴木静一 *主題歌:能瀬妙子「とんがらがっちゃあ駄目よ」作詞;佐伯孝夫 作曲:三宅幹夫 026. 1937/06/01 「見世物天国」P.C.L. …理髪師亀さん *松井稔監督、高峰秀子、古川緑波、藤原釜足、清川虹子 *音楽:谷口又士 027. 1937/07/01 「東海道は日本晴れ」P.C.L. …助十 *滝沢英輔監督、藤原釜足・岸井明主演(ジャガタラコンビ)、竹久千恵子 *脚本は夭折した天才監督・山中貞雄 *音楽:伊藤昇 028. 1937/11/03 「牛づれ超特急」東宝 *大谷俊夫監督、藤原釜足・岸井明主演(ジャガタラコンビ) *音楽:谷口又士 029. 1937/12/21 「たそがれの湖」東宝 …細谷氏 *伏水修監督、細川ちか子、江戸川蘭子、神田千鶴子、灰田勝彦 *音楽:鈴木静一 *灰田勝彦のデビュー作 030. 1938/03/01 「ドレミファ(ドレミハ)大学生」東宝 …海野君 *矢倉茂雄監督、藤原釜足・岸井明主演(ジャガタラコンビ)、江戸川蘭子、神田千鶴子 *音楽:谷口又士 031. 1938/05/01 「青春角力日記」東宝 *渡辺邦男監督、藤原釜足・岸井明主演(ジャガタラコンビ) *原作:サトウ・ハチロー *音楽:谷口又士 032. 1938/07/10 「瞼の母」東宝 *近藤勝彦監督、長谷川一夫、五月信子、霧立のぼる 033. 1938/11/03 「虹に立つ丘」東宝 *大谷俊夫監督、岸井明主演、高峰秀子、神田千鶴子 *音楽:谷口又士 034. 1939/02/11 「忘られぬ瞳」東宝 *渡辺邦男監督、岸井明主演、神田千鶴子 *音楽:谷口又士 035. 1939/04/01 「船出は楽し」東宝 *伏水修監督、岸井明主演、江戸川蘭子、椿澄枝、徳山璉 *音楽:飯田信夫 036. 1939/04/21 「忠臣蔵 前篇」東宝 …畳職人熊公 *滝沢英輔監督、大河内伝次郎、長谷川一夫 037. 1939/04/21 「忠臣蔵 後篇」東宝 …畳職人熊公 *山本嘉次郎監督、大河内伝次郎、長谷川一夫 038. 1939/05/01 「思いつき婦人」東宝 *斎藤寅次郎監督、山野一郎、竹久千恵子、花菱アチャコ、霧立のぼる 039. 1939/07/22 「風流浮世床」東宝 *岡田敬監督、徳川夢声、藤原釜足、山根寿子 040. 1939/08/31 「唄へ河風」東宝 …エントツ *並木鏡太郎監督、岸井明主演、花井蘭子 *音楽:紙恭輔 041. 1939/12/20 「新編 丹下左膳 隻眼の巻」東宝 …手代花吉 *中川信夫監督、大河内伝次郎、山田五十鈴、高峰秀子 042. 1940/01/11 「新編 丹下左膳 恋車の巻」東宝 …手代花吉 *萩原遼監督、大河内伝次郎、山田五十鈴、高峰秀子 043. 1940/01/18 「光と影 前篇」東宝 …薮下順作 *島津保次郎監督、大日向伝、原節子 044. 1940/01/18 「光と影 後篇」東宝 …薮下順作 *島津保次郎監督、大日向伝、原節子 045. 1940/02/07 「東遊記」東宝=満映 …昭和キネマ撮影監督 *大谷俊夫監督、李香蘭、藤原釜足、原節子 046. 1940/05/15 「豪傑人形」東宝 *岡田敬監督、清水金一、堤真佐子、中村メイコ *音楽:清田茂、谷口又士 047. 1940/06/26 「笑ふ地球に朝が来る」南旺映画(東宝配給) *津田不二夫監督、岸井明主演、梅園竜子、三遊亭金馬 048. 1940/11/06 「孫悟空 前篇」東宝 …猪八戒 *山本嘉次郎監督、榎本健一、金井俊夫、柳田貞一、高勢実乗、花井蘭子、高峰秀子、中村メイコ、服部富子、渡辺はま子、李香蘭、藤山一郎 *音楽:鈴木静一 演奏:P.C.L.管弦楽団 049. 1940/11/06 「孫悟空 後篇」東宝 …猪八戒 *山本嘉次郎監督、榎本健一、金井俊夫、柳田貞一、高勢実乗、花井蘭子、高峰秀子、中村メイコ、服部富子、渡辺はま子、李香蘭、藤山一郎 *音楽:鈴木静一 演奏:P.C.L.管弦楽団 049. 1941/02/18 「新編 坊っちゃん」東宝 *渡辺邦男監督、岡譲二、山田五十鈴、丸山定夫 050. 1941/02/26 「子宝夫婦」東宝 …社長後藤信太郎 *斎藤寅次郎監督、徳川夢声、英百合子 051. 1941/05/01 「白鷺」東宝 …角力烏山 *島津保次郎監督、入江たか子、黒川弥太郎、河津清三郎 052. 1942/01/14 「希望の青空」東宝 …声楽家 *山本嘉次郎監督、池部良、高峰秀子、原節子、入江たか子 053. 1942/07/02 「水滸伝」東宝 …チャオチャンチュウ *岡田敬監督、榎本健一、柳田貞一、中村是好、高勢実乗、徳川夢声、高峰秀子、 054. 1943/02/25 「ハナ子さん」東宝 *マキノ正博監督、轟由紀子、灰田勝彦、高峰秀子 *音楽:鈴木静一 055. 1943/03/18 「音楽大行進」東宝 *渡辺邦男監督、長谷川一夫、古川緑波、高峰秀子、中村メイコ *音楽:服部良一 056. 1944/01/14 「韋駄天街道」東宝 *萩原遼監督、長谷川一夫、榎本健一、山根寿子 057. 1944/03/30 「土俵祭」大映京都 …檣(ほばしら)鶴之助 *丸根賛太郎監督、片岡千恵蔵、市川春代、羅門光三郎、山口勇 *脚本:黒澤明 原作:鈴木彦次郎 058. 1945/01/11 「天晴れ一心太助」東宝 *佐伯清監督、榎本健一、轟由紀子、徳川夢声、柳田貞一 *脚本:黒澤明 *音楽:鈴木静一 059. 1945/03/29 「突貫駅長」東宝 *斎藤寅次郎監督、古川緑波主演、山根寿子、高勢実乗、志村喬 060. 1946/02/14 「陽気な女」東宝 …中嶋毅 *佐伯清監督、轟由紀子、高峰秀子、灰田勝彦 *音楽:服部正 061. 1946/10/01 「東宝ショウボート」東宝 *谷口千吉監督、藤山一郎、古川緑波、渡辺篤、横山エンタツ、花菱アチャコ、榎本健一、灰田勝彦、高峰秀子、入江たか子 *音楽:鈴木静一 062. 1947/01/04 「聟入り豪華船」東宝 …黒星山茂平 *斎藤寅次郎監督、榎本健一、柳田貞一、坊屋三郎、三谷幸子 *音楽:鈴木静一 063. 1947/03/25 「さくら音頭 今日は躍って」新東宝 *渡辺邦男監督、長谷川一夫、山根寿子、江川宇礼雄、宮川玲子 064. 1947/06/17 「見たり聞いたりためしたり」新東宝 …岸田正 *斎藤寅次郎監督、灰田勝彦、野上千鶴子、高峰秀子、江川宇礼雄、高勢実乗 *音楽:服部良一 065. 1948/03/20 「あの夢この夢」新東宝 *渡辺邦男監督、黒川弥太郎、江川宇礼雄、斎藤達雄、宮川玲子、清川虹子 *原作:西条八十 066. 1948/05/15 「彼と共に去りぬ」松竹京都 …石田仙太 *大曾根辰夫監督、岸井明・森川信主演(のらくらコンビ)、佐田啓二、井川邦子 *音楽:服部良一 067. 1948/08/25 「のらくら海浜騒動」松竹京都 …仙太 *高木孝一監督、岸井明・森川信主演(のらくらコンビ)、千秋みゆき、暁照子 *音楽:谷口又士 068. 1948/10/29 「月光城の盗賊」東横(大映) …稲葉童子 *島耕二監督、藤田進、喜多川千鶴 069. 1948/12/21 「遊侠の群れ」松竹京都 …飴屋の仙太 *大曾根辰夫監督、長谷川一夫、木暮実千代、高田好吉、鶴田浩二、岸井明・森川信(のらくらコンビ) *音楽:木下忠司 070. 1949/05/16 「我輩は探偵でアル」松竹京都 …岸仙太 *市川哲夫監督、岸井明・森川信主演(のらくらコンビ)、灰田勝彦、若杉曜子、月丘夢路 *音楽:鈴木静一 071. 1949/07/26 「踊る龍宮城」松竹大船 …カメ *佐々木康監督、川路龍子、奈良光枝、曙ゆり、並木路子、岸井明・森川信(のらくらコンビ)、中村是好、大辻司郎、高屋朗、美空ひばり、霧島昇、池真理子 072. 1949/08/16 「銀座カンカン娘」新東宝 …白井 *島耕二監督、高峰秀子、灰田勝彦、笠置シヅ子、古今亭志ん生、浦辺粂子 *音楽:服部良一 073. 1949/12/25 「影法師 寛永坂の決闘」松竹京都 …仙太 *大曾根辰夫監督、坂東妻三郎、入江たか子、山田五十鈴、鶴田浩二、岸井明・森川信(のらくらコンビ) 074. 1950/01/08 「続 影法師 龍虎相打つ」松竹京都 …仙太 *大曾根辰夫監督、坂東妻三郎、入江たか子、山田五十鈴、鶴田浩二、岸井明・森川信(のらくらコンビ) 075. 1950/01/22 「頓珍漢桃色騒動」松竹京都 …岸井仙太 *市川哲夫監督、清水金一、岸井明・森川信(のらくらコンビ)、堺駿二、朝霧鏡子、桜むつ子 076. 1950/02/07 「銀座の踊り子」宝映プロ *田尻繁監督、大川平八郎、北沢彪、小夜福子、灰田勝彦、藤山一郎、笠置シヅ子 *音楽:紙恭輔 077. 1950/03/10 「夢を召しませ」松竹大船 …漠々和尚、演出家 *川島雄三監督、秋月恵美子、芦原千津子 *音楽:万城目正 078. 1950/04/09 「放浪の歌姫」松竹京都 *市川哲夫監督、美空ひばり、杉狂児、三遊亭歌笑、南利明、若杉曜子、市川春代、岸井明・森川信(のらくらコンビ) 079. 1950/05/27 「大岡政談 将軍は夜踊る」東宝 …太鼓山 *丸根賛太郎監督、笠置シヅ子、相馬千恵子、柳家金語楼、花菱アチャコ、岸井明・森川信、山口勇、羅門光三郎、中村是好 080. 1950/09/26 「腰抜け二刀流」新東宝 …与茂作 *並木鏡太郎監督、森繁久彌、轟由紀子、花菱アチャコ、清川虹子、香川京子 *岸井明が着ぐるみを着て「ジャングル・ブギー」を披露。 081. 1950/10/03 「恋愛台風圏」東宝 *野村浩将監督、古川ロッパ、柳家金語楼、井沢一郎、市川春代 082. 1951/07/27 「歌う野球小僧」大映東京 …山崎多吉 *渡辺邦男監督、灰田勝彦、伏見和子、杉狂児、上原謙、笠置シヅ子 *音楽:服部良一、灰田晴彦 083. 1952/03/21 「おかる勘平」東宝 …岸明夫 *マキノ雅弘監督、榎本健一、越路吹雪、岡田茉莉子 *音楽:服部良一 084. 1952/09/18 「三太と千代の山」新理研映画=大日本相撲協会映画部 …酒屋の音さん *小田基義監督、徳川夢声、神戸文彦、左幸子、千代ノ山 085. 1952/12/18 「エンタツちょび髭漫遊記」宝プロ …大蛇丸 *丸根賛太郎監督、横山エンタツ、森繁久彌、大泉滉、坊屋三郎、益田喜頓 086. 1952/06/05 「華やかな夜景」松竹 …足柄山 *原研吉監督、佐田啓二主演 087. 1953/02/12 「三太頑張れッ!」新東宝 …音さん *井上梅次監督、神戸文彦、藤原釜足、美空ひばり、千代の山、栃錦、鏡里 088. 1953/04/23 「大菩薩峠 甲源一刀流の巻」東映 …與八 *渡辺邦男監督、片岡千恵蔵 089. 1953/06/13 「大菩薩峠 第二部 壬生と島原の巻 三輪神杉の巻」東映 …與八 *渡辺邦男監督、片岡千恵蔵 090. 1953/06/17 「大菩薩峠 第三部 竜神の巻 間の山の巻」東映 …與八 *渡辺邦男監督、片岡千恵蔵 091. 1953/10/21 「霧の第三桟橋」新東宝 …黄端雨 *内川清一郎監督、三浦光子 092. 1954/01/21 「真田十勇士 第一篇 忍術猿飛佐助」東映京都 …ひげの天平 *河野寿一監督、大友柳太朗、月形龍之介、杉狂児、北川千鶴、千原しのぶ 093. 1954/01/21 「真田十勇士 第二篇 忍術霧隠才蔵」東映京都 …ひげの天平 *河野寿一監督、大友柳太朗、月形龍之介、杉狂児、北川千鶴、千原しのぶ 094. 1954/01/21 「真田十勇士 第三編 忍術腕くらべ」東映京都 …ひげの天平 *河野寿一監督、大友柳太朗、月形龍之介、杉狂児、北川千鶴、千原しのぶ 095. 1954/03/17 「落語長屋は花ざかり」東宝 …泥棒 *青柳信雄監督、佐藤一郎・岸井良衛製作、古川緑波主演、柳家金語楼、笠置シズ子 096. 1954/04/26 「ジャズ・オン・パレード 1954年 東京シンデレラ娘」 …ルンペンの大さん *井上梅次監督、雪村いづみ、古川緑波、伴淳三郎、三木のり平、清水金一、南里文雄、フランキー堺、ナンシー梅木 097. 1954/04/27 「新諸国物語 笛吹童子 第一部 どくろの旗」東映京都 *萩原遼監督、東千代之介、中村錦之助、田代百合子、高千穂ひづる、大友柳太郎 098. 1954/05/03 「新諸国物語 笛吹童子 第二部 妖術の闘争」東映京都 *萩原遼監督、東千代之介、中村錦之助、田代百合子、高千穂ひづる、大友柳太郎099. 1954/05/10 「新諸国物語 笛吹童子 第三部 満月城の凱歌」東映京都 *萩原遼監督、東千代之介、中村錦之助、田代百合子、高千穂ひづる、大友柳太郎 100. 1954/07/13 「とんち教室」東映 …蟹山六郎 *渡辺邦男監督、石井一雄、横山エンタツ、三浦光子 101. 1954/10/12 「三日月童子 第一篇 剣雲槍ぶすま」東映京都 …ひげの天平 *小沢茂弘監督、東千代之介、千原しのぶ、藤里まゆみ、三条雅也 102. 1954/10/19 「三日月童子 第二篇 天馬空を征く」東映京都 …ひげの天平 *小沢茂弘監督、東千代之介、千原しのぶ、藤里まゆみ、三条雅也 103. 1954/10/26 「三日月童子 完結篇 万里の魔境」東映京都 …ひげの天平 *小沢茂弘監督、東千代之介、千原しのぶ、藤里まゆみ、三条雅也 104. 1954/11/08 「満月狸ばやし」東映京都 …狸五郎 *萩原遼監督、中村錦之助、高千穂ひづる、堺駿二、川田晴久、大泉滉 105. 1954/12/27 「新諸国物語 紅孔雀 第一篇 那智の小天狗」東映京都 *萩原遼監督、中村錦之助、高千穂ひづる、星美智子、東千代之介、大友柳太郎 106. 1954/12/28 「旗本退屈男 謎の怪人屋敷」東映 …可内 *渡辺邦男監督、市川右太衛門、高峰三枝子 107. 1955/03/21 「森繁の新入社員」新東宝 …出雲国十郎 *渡辺邦男監督、森繁久彌、司葉子、高島忠夫 108. 1955/03/28 「百面童子 第一篇 ギヤマンの秘密」東映京都 …西洋占い了斉 *小沢茂弘監督、東千代之介、永田清、伏見扇太郎、美多川光子、星美智子 109. 1955/04/05 「百面童子 第二篇 サタンの窟」東映京都 …西洋占い了斉 *小沢茂弘監督、東千代之介、永田清、伏見扇太郎、美多川光子、星美智子 110. 1955/04/13 「百面童子 第三篇 バテレンの宴」東映京都 …西洋占い了斉 *小沢茂弘監督、東千代之介、永田清、伏見扇太郎、美多川光子、星美智子 111. 1955/04/28 「百面童子 完結篇 イスラムの女王」東映京都 …西洋占い了斉 *小沢茂弘監督、東千代之介、永田清、伏見扇太郎、美多川光子、星美智子 112. 1955/05/03 「まぼろし小僧の冒険 第二篇 天狗ケ池の激斗」東映京都 *萩原遼監督、伏見扇太郎、千原しのぶ、星美智子 113. 1955/07/05 「森繁のやりくり社員」新東宝 …巡査 *渡辺邦男監督、森繁久彌、杉葉子 114. 1955/07/30 「夕焼童子 第一部 出羽の小天狗」東映京都 …依田倉光 *小沢茂弘監督、伏見扇太郎、月形龍之介、美多川光子 115. 1955/08/07 「夕焼童子 第二部 暁の騎馬隊」東映京都 …依田倉光 *小沢茂弘監督、伏見扇太郎、月形龍之介、美多川光子 116. 1955/08/22 「まぼろし小僧の冒険 たつまきの決戦」東映京都 *小杉勇監督、伏見扇太郎、千原忍、三条美紀 117. 1956/02/04 「狸小路の花嫁」東映 …保吉 *小石栄一監督、波島進(「七色仮面」「特別機動捜査隊」主演) 118. 1956/02/11 「名君剣の舞」東映京都 *河野寿一監督、東千代之介、田代百合子、三笠博子 119. 1956/07/20 「宝島遠征」東映京都 *小林恒夫監督、美空ひばり、堺駿二、益田喜頓、川田晴久、榎本健一 120. 1956/07/20 「冒険時代劇 日輪太郎」東映 *松村昌治監督、伏見扇太郎、丘さとみ、原健策 *「宝島遠征」と公開日が同日になっているが当時で二本立てで公開していたので、美空ひばりの「宝島遠征」が一本目で、デビューしたばかりの伏見扇太郎主演の「冒険時代劇 日輪太郎」が二本目であろう。 121. 1956/07/25 「日輪太郎 完結篇 蛇地獄の怪人」東映 *松村昌治監督、伏見扇太郎、丘さとみ、原健策 122. 1956/08/08 「南海の若武者物語 風雲黒潮丸」東映京都 *深田金之助監督、伏見扇太郎、三笠博子、丘さとみ、山手弘 123. 1956/08/29 「大学の石松 ぐれん隊征伐 太陽族に挑戦す(二部作)」東映 …番人秋山 *小石栄一監督、高倉健主演、中原ひとみ 124. 1956/11/28 「孫悟空 第一部」東映京都 …猪八戒 *佐伯清監督、伏見扇太郎、大泉滉、三条美紀 125. 1956/12/05 「孫悟空 第二部」東映京都 …猪八戒 *佐伯清監督、伏見扇太郎、大泉滉、三条美紀 126. 1956/12/11 「神変美女桜」東映京都 …朝日山元吉 *内出好吉監督、東千代之介、長谷川裕見子、浦里はるみ 127. 1957/01/09 「大江戸喧嘩纏」東映京都 *佐伯清監督、大友柳太郎、美空ひばり、大川橋蔵、三条美紀 128. 1957/01/22 「恋染め浪人」東映京都 *加藤泰監督、大友柳太郎、薄田研二、波島進、長谷川裕見子、浦里はるみ 129. 1957/01/29 「若獅子大名・二部作」東映 …正六 *伊賀山正光監督、東千代之介主演、丘さとみ 130. 1957/04/16 「大学の石松 女群突破」東映 …太山 *小石栄一監督、高倉健主演 131. 1957/07/13 「大菩薩峠」東映京都 …与八 *内田吐夢監督、片岡千恵蔵、中村錦之助、長谷川裕見子、大河内伝次郎、波島進 132. 1957/07/23 「魔の紅蜥蜴」東映 …弁天夜叉丸 *深田金之助監督、市川右太衛門、大河内伝次郎 133. 1957/08/20 「こけし子守唄 夕やけ鴉」東映京都 …上田駅長 *伊賀山正光監督、松島トモ子、大川恵子、三条美紀 134. 1957/09/29 「若さま侍捕物帳 鮮血の人魚」東映京都 …頓平 *深田錦之助監督、大川橋蔵、千原しのぶ、大川恵子、星美智子 135. 1957/10/29 「ふるさとの歌 哀愁のりんご園」 …紫野 *村山新治監督、三橋美智也 *三橋美智也のヒット曲「リンゴ花咲く故郷へ」の映画化。 136. 1957/12/15 「忍術御前試合」東映京都 *沢島忠監督、伏見扇太郎、高松錦之助、尾上鯉之助、月形龍之介、大河内伝次郎 137. 1957/12/28 「花吹雪 鉄火纏」東映京都 …板前の紋三 *河野寿一監督、大川橋蔵、薄田研二、中原ひとみ 128. 1958/01/29 「緋ざくら大名」東映京都 *加藤泰監督、大川橋蔵、大川恵子、波島進、大河内伝次郎 129. 1958/02/05 「少年 猿飛佐助」東映京都 …三好青海入道 *河野寿一監督、中村嘉葎雄主演、丘さとみ、里見浩太朗 130. 1958/02/12 「少年 猿飛佐助 牢獄の姫君」東映京都 …三好青海入道 *河野寿一監督、中村嘉葎雄主演、丘さとみ、里見浩太朗 131. 1958/02/19 「少年 猿飛佐助 天空の白馬」東映京都 …三好青海入道 *河野寿一監督、中村嘉葎雄主演、丘さとみ、里見浩太朗 132. 1958/02/19 「曲馬団の娘」東映京都 …ピエロ *小石栄一監督、中原雅子、江原真二郎 133. 1958/03/11 「源氏九郎颯爽記 白狐二刀流」東映 *加藤泰監督、中村錦之助、大川恵子 134. 1958/04/21 「大菩薩峠 第二部」東映京都 …与八 *内田吐夢監督、片岡千恵蔵、中村錦之助、長谷川裕見子 135. 1958/05/07 「三代目 魚河岸の石松」東映 …幸作 *小石栄一監督、今井健二主演、佐久間良子 136. 1958/06/03 「デン助の陽気な靴みがき」東映 …通称芸術家 *伊賀山正光監督、大宮敏光主演、松島トモ子 137. 1958/07/06 「おこんの初恋 花嫁七変化」東映東京 …赤木 *渡辺邦男監督、美空ひばり主演 138. 1958/08/12 「空中サーカス 嵐を呼ぶ猛獣」東映 …カンちゃん *小石栄一監督、高倉健主演、佐久間良子、松島トモ子 139. 1958/09/10 「希望の乙女」東映京都 *佐々木康監督、美空ひばり主演 140. 1958/12/02 「浅間の暴れん坊」東映 …平吉 河野寿一監督、中村錦之助主演、丘さとみ 141. 1958/12/09 「デン助の陽気な拳闘王」東映 …芸術家 *伊賀山正光監督、大宮敏光主演、松島トモ子 142. 1958/12/15 「若さま侍捕物帳 紅鶴屋敷」東映 …よだれくりの丁松 *沢島忠監督、大川橋蔵主演 143. 1958/12/27 「喧嘩笠」東映 …相撲常 *マキノ雅弘監督、大川橋蔵主演、大川恵子 144. 1959/01/03 「殿さま弥次喜多 捕物道中」東映 …ダボハゼ *沢島忠監督、中村錦之助主演、中村賀津賀葎雄、中原ひとみ、丘さとみ、桜町弘子 *音楽:鈴木静一 145. 1959/01/28 「旋風家族」東映 …あぶれたバンドマンB *小石栄一監督、江原真二郎主演、佐久間良子、中原ひとみ 146. 1959/04/15 「ゆうれい小判」東映京都 …鶴亀の芳造 *秋元隆太監督、里見浩太朗主演 147. 1959/04/28 「大菩薩峠 完結篇」東映京都 …与八 *内田吐夢監督、片岡千恵蔵主演、中村錦之助 148. 1959/08/26 「榛名ばやし 喧嘩鷹」東映 …岩竜軒 *内出好吉監督、市川右太衛門主演、北大路欣也 149. 1959/09/02 「静かなる兇弾」東映 …「まるみや」の主人 *関川秀雄監督、高倉健主演、志村喬、中原ひとみ 150. 1959/09/23 「べらんめえ探偵娘」東映 …清さん *佐伯清監督、美空ひばり主演、木村功 151. 1959/09/30 「高度7000米 恐怖の四時間」東映 …力士 *小林恒夫監督、高倉健主演、久保菜穂子 152. 1959/12/13 「江戸の悪太郎」東映京都 …手代五左衛門 *マキノ雅弘監督、大友柳太郎主演 153. 1959/12/25 「少年猿飛佐助」東映動画 *長編漫画映画(時代劇アニメ)、カラー、1960年度ベニス国際映画祭児童映画部門マルコ獅子賞(グランプリ)受賞、米国で初めて公開されたアニメ(1961年)。 154. 1960/01/09 「旗本退屈男 謎の幽霊島」東映 *佐々木康監督、市川右太衛門主演、シリーズ第26作 155. 1960/01/21 「天下の快男児 万年太郎」東映 *小林恒夫監督、高倉健主演 156. 1960/02/07 「大江戸の侠児」東映京都 …庄屋の下男 *加藤泰監督、大川橋蔵主演 157. 1960/04/26 「ひばり十八番 お嬢吉三」東映京都 …甚五郎 *佐々木康監督、美空ひばり主演 158. 1960/05/29 「草間の半次郎 霧の中の渡り鳥」東映 …多吉 *内出好彦監督、大川橋蔵主演 159. 1960/07/26 「喧嘩まつり 江戸っ子野郎と娘たち」第二東映 …留 *小野登監督、里見浩太朗主演、花園ひろみ 160. 1960/08/07 「水戸黄門」東映 *松田定次監督、月形龍之介、片岡千恵蔵、市川右太衛門、中村錦之助、大友柳太郎 161. 1963/10/13 「続・てなもんや三度笠」東映 …親方 *内出好彦監督、藤田まこと主演 # by torubadour | 2011-02-05 10:36
2011年 02月 05日
岸井明とジャズ・ソング
岸井明がレコード・デビューした昭和のはじめのころの日本の音楽は、外国製のポピュラー音楽が大流行りで、アメリカのジャズやダンス音楽を始めとして、ハワイアン、シャンソン、タンゴ、ルンバ、その他のあらゆる西洋のポピュラー音楽を総称して日本ではジャズ・ソングと呼んでいた。 前述したように、ビング・クロスビーをアイドルと崇拝する岸井明は、ジャズが大好きで、クルーナー唱法で甘く、まるでおしゃべりを楽しんでいるかのような唄い方をする。これは当時の音楽喜劇映画、ジャズ映画の手法だと思うが、しゃべり言葉がいつのまにか唄になっている。そんな楽しさを岸井明はレコードでも表現している。瀬川昌久は「ミュージック・マガジン 創刊号」で、岸井明をディック・ミネとエノケンとともに「三大個性的歌手」として紹介している。引用がやや長くなるが紹介したい。 ー昭和10年頃から、日本生まれの歌手の中にも、優れたフィーリングをもった個性的シンガーが何人か育ち始めた。ディック・ミネ、岸井明、エノケンは、ある意味でアメリカの物真似でない独特のキャラクターを打ち立てた点で、戦後出も比肩しえない偉大なパーソリティであった。ー ー岸井明、アーちゃんは、三枚目の喜劇俳優としてのP.C.L.映画で多くの音楽映画に出演、太った巨体と童顔で親しまれたが、根っからのジャズ好きで、センスも抜群だった。兎に角外国のジャズ・レコードの大コレクターで、自らも歌いたくてたまらず、昭和10年頃、P.C.L.ジャズバンドの指揮者谷口又士にせがんでは、ビクター・レコードの吹込を促進した。全部で十数曲の吹込の中には、ジャズ・センスの溢れた傑作が多い。「ダイナ」で後半テンポを早くして、ミルス・ブラザースを範にとり、口に手を当ててトランペットの真似をきかせ、「プリーズ」は、クロスビー張りののんびりとしたクルーナーで歌う。「スイート・スー」を「スーちゃん」という迷訳で自家薬籠中のもの [必要に応じて自分の思うままに使える物、または人] として歌い込み、「マイ・メランコリー・ベビー(涙をふいて)」のセンチメンタルな表情、ミネも歌った「ミュージック・ゴーズ・アラウンド(唄の世の中)」の楽器とのかけ合い、「アレクサンダー・ラグタイム・バンド(世紀の楽団)」のスウィンギーな軽快さ、谷口の見事なアレンジとあいまって、実に立派な個性あるヴォーカルを楽しめる。ー と賞賛の言葉を贈りながら、各曲を的確に評している。 岸井明の唄の作品 ここで今の時点で確認できるレコードとして吹き込まれた曲をあげておこう。 01. ダイナ (Dina) 昭和10年(1935)訳詞:上山雅輔、編曲:谷口又士 02. ねえ君次第 (I'm Following You) 昭和11年(1936)訳詞:上山雅輔 03. ほんとに困りもの 昭和11年(1936)作詞:岸井明、作編曲:鈴木静一 *神田千鶴子とのデュエット *鈴木静一は天才童謡歌手の平井英子の夫君。 僕の彼女はおちゃっぴい お洒落で浮気で嬉しがり そのくせとってもおセンチで ほんとに彼女は困りもの あたしの彼氏はちゃっかり屋 呑んべで無精で淋しがり そのくせとっても怒りんぼ ほんとに彼氏は困りもの 04. 涙をふいて(My Melancholy Baby)昭和12年(1937)訳詞:岸井明、編曲:谷口又士 泣かずに涙をふいて わけを聞かせて 明るい君の顔には 涙は似合わない 君が悲しむ時は 僕も淋しい ほがらかに いつも にこにこ 仲よく暮らそうよ 05. スーちゃん(Sweet Sue, Just You)昭和12年(1937)訳詞:岸井明、編曲:谷口又士 月の夜も 星の夜も スーちゃん スーちゃん いつも見る 君の夢 スーちゃん スーちゃん ふとさめて 真夜中に 目に浮かぶ 君の顔 スーちゃん スーちゃん 06. タバコやの娘 昭和12年(1937)作詞:薗ひさし、作編曲:鈴木静一 *平井英子とのデュエット。 *作詞の薗ひさしは、平井英子の夫君、鈴木静一のペンネーム。 07. 進軍スイング 昭和13年(1938) 08. 野球選手の兵隊さん 昭和13年(1938) *上記の2曲は戦時色が濃くなりだした影響でつくられた唄だが、岸井明が唄うとなんだか楽しい。 09. ホノルル・ムーン (Honolulu Moon) 昭和13年(1938)訳詞:若杉雄三郎、編曲:鈴木静一、演奏:灰田晴彦とモアナ・グリー・クラブ 10. 海辺は楽し (Kilakila O Haleakala) 昭和14年(1939)訳詞:岸井明、編曲:灰田晴彦 11. 世紀の楽団 (Alexander's Ragtime Band) 昭和14年(1939)訳詞:岸井明、編曲:谷口又士 *加美科可那子とのデュエット。 皆さんお聞きよ すてきなバンド きれいなお嬢さん さあさ 歌いましょ これ 気どらずに ねえ すまさずに あなたが歌えば皆歌う すてきなバンドが伴奏します タイコもピアノも ラッパもギターも 調子を揃えて楽しく歌え みんな仲よくほがらかに いつも 歌えよ 歌えよ みんな元気で歌え 12. 姑娘可愛いや(チャイナ・ルンバ)昭和14年(1939)訳詞:薗ひさし、編曲:鈴木静一 *平井英子とのデュエット。 以下は録音された曲名はわかるが、私自身が音源を確認できていない、または持っていない曲。 13. プリーズ 昭和10年(1935) *この曲は「ザッツ!浅草芸人~江戸前の粋~」というCD6枚組のセットの中に収録されているが廃盤になっている。 14. 月に告ぐ(月光値千金)昭和11年(1936)訳詞:岸井明 *YouTubeで聴くことができる。 *岸井明の訳詞はメランコリックで、他のどの訳よりも優れていると思う。 お月さま おいくつ 十三、七つ あたしのあの子も 十三、七つ お月さま あなたも 恋の病み上がり あたしもあの子に 恋の薄明かり 切ないあたしの この胸をあの子に 伝えて頂戴 お月さま さえない あたしの心 明るく まんまるく なりたい心 15. 唄の世の中 昭和11年(1936) *この曲も「ザッツ!浅草芸人~江戸前の粋~」に収録されているが、YouTubeで聴くこともできる。 16. 家になんか帰るかい 昭和11年(1936) 17. 帆は夕陽に燃えて 昭和12年(1937) 18. お山の楽隊 昭和14年(1939) 以上、全部で18曲である。こうやってひととおり岸井明の作品を集めて聴くと、彼の魅力はやはりお喋りの延長が唄になったような軽さとユーモアのセンスと唄う歌詞のノリがよいことだろう。そしてそれらを可能にしているのが自らが訳詞、いや彼の場合、新たに作詞したといってよいほどの彼らしい日本語の歌詞である。そして日本語の歌詞を見事にジャズのリズムにのせることによって、英語の歌詞で唄うよりも、よりたくさんのひとたちに彼の音楽が届いたことだろう。その一つの例として三木鶏郎とのエピソードを紹介したい。 三木鶏郎と「歌の新聞」 日本の放送と音楽界の開拓者と呼ばれ、戦後の放送界で活躍した音楽家、三木鶏郎の出発点であるNHKの「歌の新聞」は昭和21年(1946)、ひょんなきっかけから生まれ、戦後の世相を写し出した歌とコントからなる番組は、たちまちのうちに大ブレークした。そして低予算の番組なのに元P.C.L.女優、神田千鶴子の出演が決まったことに気をよくした三木鶏郎は、第一回に放送した「南の風が消えちゃった」を歌って欲しかった岸井明に出演を依頼しようと考えた。三木鶏郎は軍隊時代、岸井明と平井英子の「タバコやの娘」をよく歌い、彼を喜劇俳優としてより、コミックソングの歌手として高く評価していた。しかし、売れっ子の彼は進駐軍キャンプでも引っ張りだこで多忙な上に、ギャラの問題もあった。よい番組をつくるため、岸井明の人の良さに望みをたくして、田園調布にある彼の自宅を訪ねた。 呼び鈴を押すと美人の奥さんが出て来た[前述したように元宝塚の初霜菊子である]。中に通された三木鶏郎は、どてらを着込んだ岸井明とこたつに入って、岸井明の唄のファンであることを伝え、「南の風が消えちゃった」の楽譜を手渡しながら番組の出演依頼をした。楽譜を目で追い、軽く口ずさんだ岸井明は「いい曲ですね。作詞はどなた?」とたずね、三木鶏郎自身だと知ると「お仲間ですね」と訳詞ができたばかりのイッツ・ビンナ・ロング・タイム It's Been A Long Long Time」を "ね、ちょっとだけ、ちょっとだけ、もう一度……" と唄った。訳詞も素晴らしかったが、声もすばらしかった。 出演を快諾してくれた岸井明は「楽しい日曜日」と「涙はどんな色でしょか」を番組で唄うことに決めたあと、自分の作詞ノートを渡し、いいのがあれば曲をつけて欲しいと頼むんだ。三木鶏郎はその中から二つの歌詞を選び、後日曲をつけた。 ああ、なんてふたりとも幸せ者なのだろう。音楽を愛するもの同士としてお互いを認めあう、そして力をあわせて新しいものをつくっていく。この二人の時間はとてもとても楽しかっただろうなあと、こちらまでなんだか嬉しくなってしまった。 「楽しい日曜日」1946 作詞:三木鶏郎 「涙はどんな色でしょか」1946 作詞:サトウハチロー 「電話の故障じゃないでしょか」1946 作詞:岸井明 「恋の一代記」1946 作詞:岸井明 また、色川武大は「なつかしい芸人たち」のなかで、 ー今、年配の人が、岸井明というとまず口にするのは、戦争後期に映画で歌った「ボクはなんでも二人前」や、褌かつぎの角力とりに扮した「櫓太鼓」あたりであろう。ー と述べている。調べてみると、昭和17(1942)年1月に「やぐら太鼓に」(ビクター A4266)という曲が発売されたようである。作詞・作曲はだれだかわからない。「櫓太鼓」は高田好吉の歌で14年1月の発売である。色川武大の記憶違いであろう。「ボクはなんでも二人前」についてはまったくわからない。 岸井明が映画で唄っている歌はオリジナルであれ、カバーであれ、映画の出演数からすると相当あるように思えるが、このようにレコードされているのかどうかはわからないものも多いだろう。また映画やなかでの歌がレコード化されずに、みなが口ずさめるということはラジオの影響が考えられるが、レコード化されてないということは、どういう記録媒体で放送用につくられ、利用されたのであろうかも興味深いところである。 おわりに 昭和の初期にはじまったジャズ・ソングのブームのなかで、その巨体からにじみ出る可笑しみとペーソスをベースに、俳優出身らしくユーモラスで表現ゆたかに唄いあげた岸井明の人生を追ってみた。はじめに述べたように岸井明に関するまとまった資料はなく、彼の人生をある程度あきらかにするには多くの資料と時間が必要だった。彼の仕事の中心である映画では何本かは主演作はあるものの、基本的に立位置は「脇役」であり、その方がアクの強い主張をしない彼らしくもある。したがって「完全」な出演作のリストもなかったのでいくつかの作品リストを照らし合わせながらつくってみたが、ある程度岸井明の作品は網羅できたとは思うが、これが「完全」な作品リストであるとの自信は残念ながらない。しかし、作品リストをつくることによって、岸井明というヴォードビリアンの輝くさまや、歓ぶさまを垣間見るように体験できたのは嬉しかった。残念なのは、舞台作品についてはわからないことが多く代表的な作品の、それも一部しか知ることができなかったのではと思っている。市販されている文献に頼るやり方ではない方法をとるべきだったかも知れないが、無学の私には今回はこれが限度だった。また、作品数は少ないものの、もしかすると岸井明の本領かもしれないジャズ・ソング、「唄」についてはもっとたくさんの作品があることを内心期待していたが記述したとおり、レコード化されたものは20曲ほどであるが色川武大の文章から、多の資料にはいっさい出てこなかった「やぐら太鼓に」を見つけることができたので、もしかするとまだレコード作品はあるかもしれない。レコード化されなかった「唄」はもっとあるだろう。探す手だてを知らない私には悶々とする思いである。訳詞、作詞についても同じである。彼のセンスは身体的なセンスだけではなく、その詞のセンスは今のシンガーソングライターの始祖と思えるほど見事にメロディと一体化している。そして少し笑わせて、少しセンチにさせてくれる。あるブログに奥田良三、ディック・ミネ、小林千代子らが集まっての座談会の席で司会者が、岸井明は「ジャズの歌詞は自分で歌うのは自分で訳した方が歌いやすい」と言ったと披露している話があった。三木鶏郎とのエピソードのなかでの、「イッツ・ビンナ・ロング・タイム It's Been A Long Long Time」を"ね、ちょっとだけ、ちょっとだけ、もう一度……"、と訳した部分がたまらなくて、今も頭のなかを何回もリフレインしている。岸井明の「ノート」はどこにあるのだろうか。それが今一番の関心事である。 最後の最後にバイオグラフィを完成させなければならない。最後も色川武大の『なつかしい芸人』「誰よりトテシャンな ー岸井明のことー」から引用させていただく。 ーロッパも岸井明も、とにかく肥満を保った努力が裏目に出て、がっくり瘠せた。特に瘠せた岸井明は、いかに明るくふるまっても、今度は、瘠せたということが直に観衆の屈託を呼んでしまうだろう。 アーちゃんという愛称で、撮影所でも皆に明るくふるまっていた彼が、人が変わったように狷介になったという。 そのせいか、宝塚出身の夫人ともうまくいかず、子供もなく、寝ついていた最晩年は孤立に近い状態だったようだ。 中略 今でもはっきり覚えているのは、瘠せ細った岸井明が転居先のせまい部屋で寝ていて、看取る人も絶えがちだったとか、葬式も淋しかったとか、そんなことばかりだ。たぶん、岸井明に少しもふさわしくなかったからだろう。ー なんということだろう。岸井明は岸井明であるためにその寿命を縮めたとしても、つまり飽食を続け、その巨体を維持し続けて、そのために病気になって早死にしたとしてもそれは彼の生き方であり、「芸人」とすればそれも「芸」のためであろうから、そうか肥満がたたって病気になって早死にしてしまったか、と納得顔もしていられるが、淋しく死んでいったとは、そいつはいけない。岸井明らしくない。そう思って岸井明の親しくした人、兄・良衛の自伝『ひとつの劇界放浪記』、デコちゃんと可愛がり、共演も多い高峰秀子の自伝『わたしの渡世日記』、東宝の重役であった森岩雄の自伝『私の藝界遍歴』を読み直しても、そのへんの話が出てこない。せいぜい兄・良衛が著名な人やお世話になった人が亡くなったことを哀しみをもって書いたあとに弟・明も妹の夫も死んだと簡単に記しているだけだ。本当に岸井明はその病気のために色川のいうように「狷介」になり、人がよりつかなくなったのだろうか。悲しい思いである。もっと死に際のことも知りたいが詮無いことである。私は今ある彼の作品をもっと楽しみ、まだ見ぬ作品を想い、もし彼がもう少し長生きしてたらどんな作品をつくっていただろうかと想像しながら「岸井明」「ジャズ・ソング」「音楽喜劇映画」を楽しんでいきたい。 最後に一言、「岸井明とクレージーキャッツの共演を見てみたかった!」 # by torubadour | 2011-02-05 10:33
2011年 02月 05日
岸井明のエピソード
巨漢というキャラクター 映画や写真で岸井明を見たら、まずその身体の大きさに驚かされるだろう。色川武大の『なつかしい芸人たち』の岸井明の項はこんな会話から始まる。 ーこの正月、テレビで、昭和十六年製作の東宝映画「エノケンの孫悟空」を見た若い人が、 「猪八戒になった人、あれは何者です」 「何者って、あれが岸井明さ」 「張りぼてじゃないでしょう。お相撲さんですか」 「いや、本職のコメディアン、ヴォードビリアンかな。売り出したころは、百八十二センチ、百二十九キロと称していたね。」 「それじゃ、先年亡くなった千葉信男のような存在かな」 「そうだけど、もっと甘くてね。あの巨漢で、たいがい少女に恋している役なんだ」ー 色川武大によれば、この時代は巨漢、巨体のデブ・キャラクターが人気だったようで、岸井明の日大の先輩である、日活の田村邦男、松竹の大山健二、横尾泥海夫(よこおでかお)(彼はデブではなく大男)、またマイナー映画会社の大都映画の大岡怪童、大山デブ子のコンビなどが人気があったという。横尾泥海夫、大岡怪童のネーミングは厳ついが、大山デブ子のネーミングは本人に悪いんじゃないかと思うくらいストレートで、可笑しみがある。大岡とのコンビによる映画のタイトルも「あら太いわね」(1932)と率直そのものである。大山デブ子(1915-1981)は160センチで105キロ、約200本の映画に出演、1939年には1年間でなんと22本の映画に出演している。その人気のほどが知れよう。 閑話休題、岸井明に話を戻そう。色川武大は岸井明の魅力について、大きい体からは豊かな歌声が出るように思え、闊達な快さ、楽天的な愛嬌が、まわりの屈託を振り払い、舞台人特有の暗さもなく、伸び伸びしていたと語り、戦後の復活した日劇レビューのなかで、いちばん精彩を放っていたのは高峰秀子や灰田勝彦ではなく岸井明で、デブというものがあんなに特別な存在に見えたことはない、とまで述べている。 岸井明の俳優としての面白さは確かにその巨体からでる可笑しみや、ある意味の羨望のようなものであろうが、それにふたつの要素が加わって岸井明の特別な魅力になっているとおもう。そのひとつは「甘さ」である。歌声はもちろんであるが、色川武大が言うように彼は「恋している」のである。映画「ハリキリ・ボーイ」「唄へ河風」などではダブルのスーツを着て帽子を被り恋人とランデブーしながら唄っている。三枚目のはずなのに、ちょっと二枚目ふうな役柄という意外性が面白い。もうひとつはその身のこなしだろう。それは「銀座カンカン娘」の唄のシーンでも垣間見れたが、ステップやリズムだけではなく、例えば「東京ラプソディ」で岸井明が車の乗りながら唄うシーンの最後に、ボンネットに座っていた岸井明がオーバーフェンダーを滑りながら着地するカットがある。その自然な動作は粋でカッコいいものであった。またシネ・オペレッタ、つまり音楽喜劇「踊る龍宮城」でカメに扮した岸井明がカッパ王国で塩のようなものを撒きながら闘うシーンで一瞬、相撲取りが塩を撒くような仕草をしている。この笑いのセンスには脱帽した。そう岸井明は身体を動かすセンスがいいのである。一見のろまにみえる大男がリズミカルに動き、とぼけた顔で粋な所作をし、ナンセンスというセンスも持っている。このような魅力がさらに岸井明の巨体を愛すべきものにして、見る者はその「恋する」巨体にペーソスを感じ、さらに魅力ある岸井明になっているのである。 古川緑波とのエピソード これまた色川武大の『なつかしい芸人たち』によるが、「笑の王国」やP.C.L.などで仲間だった古川緑波(ロッパ)の戦争中の食べ物のことを記した『悲食日記』に、痩せてすっかり元気のなくなった岸井明がロケ先にやってきて、農村部の比較的潤沢なご馳走を嬉しそうにもりもり喰うところがある、と書いている。さっそく『悲食日記』をひもとくと、昭和19年(1944)12月18日と20日の項に岸井明が登場する。 十二月十八日(月) 角力取りの役で出る、岸井明着。四十二貫もあった巨体が、「十三貫やせちゃったよ」と、今や中デブ位である。よし、当地でしびれる程喰わしてやる、と企画する。 十二月二十日(水) 中略。今夜は、岸井明に、うんと食って貰おうという企画で、A屋に席を取った。鰻の蒲焼、鯉こく等に、白米を、うんと炊かせた。これで一つ、アーちゃんを、たんのうさせようと思い、迎えを出したら、何と、彼今朝より大下痢で苦しんでいるから、行けないと言う。人生とは、かくの如きものか。 とあった。この日記が書かれた昭和19年、いよいよ日本は敗色濃くなり、都心はよほど食べ物が困っていたらしく、ヤミでの食料調達や、ヤミレストランの話がたくさん出て来る。地方のロケや巡業、または慰問に行くとおいしいものにたらふく味わえた喜びや期待はずれだった話など、とにかく食べることに関することがほぼ毎日書かれている。色川武大がうろ覚えしていた内容とは違うが、この話はなんだか映画のワンシーンのようで面白い。しかし、公称三十五貫(131キロ)だったはずの体重がいつのまにか四十二貫(157キロ)まで増え、戦争末期にはそれが十三貫も瘠せて、二十九貫、108キロにまでなってしまったとは、角力とりの役は無事こなせたのであろうか。いや、この当時ならそれでも十分だったかもしれない。ちなみに、この映画は古川緑波主演の「突貫駅長」(1945年3月29日公開、東宝)で、ロケ場所は福島県須賀川である。 この話は同じく古川緑波(ロッパ)の自伝『古川ロッパ あちゃらか人生』(1997年、日本図書センター)[この本は古川ロッパ著『喜劇三十年 あちゃらか人生』(1956年、アソカ書房)を底本にしている]にもあり、 ー戦争中、食料難の嵐はわれら笑の王国の人々にも吹き荒んで、随分皆痩せた。僕なんかも、戦争中に二三貫瘠せたが、最も瘠せたのは、岸井明だった。四十二三貫もあった大デブのアーちゃんは、食糧難と共にだんだんと瘠せて行って、二十九貫くらいになってしまった。 「ウーン、随分瘠せたねえ。」 と言うと、彼は、淋しく笑って、 「十三貫目減ったよ。ハハハ。日本の人口が一人減ったようなもんだ」 と言った。成程。十三貫と云えば、人間一人前の目方だからなあ。しかも戦争も終わって、岸井明もメキメキ育ち直して、今ではまた、もとの四十貫くらいに戻ったから安心していただきたい。ー と書いている。なるほどよかった、一安心である。しかし腹を空かしながらも「日本人が一人減ったようなもんだ」との精一杯の受け答えはさすがである。一人分減ってもまだ二人分の体重がある岸井明しかできない受け答えであろう。 もう一つ、戦前の新橋で唯一英語を話せる芸者として活躍していた中村喜春(きはる)の『江戸っ子芸者一代記』(1983年、草思社)に、古川ロッパと岸井明のグルメで大食漢の話が出て来る。少し長いが当時の雰囲気を知るためにも引用しよう。 ーその頃、あたしたちが月に五円(今の一万円くらい)ずつ出し合って「モナミ」で集まって脳味噌も運動というか、お昼を食べながら好きなことを言ったり、相談したりする会をやっていました。 小林千代子さん(レコード歌手) 土屋の準ちゃん(若手の外交官) 市川段四郎さん(今の三世猿之助さんの父上)[前述したように岸井明の小学校の同級生:平川注] 古川ロッパさん(古川緑波、コメディアンですが男爵の息子さんです。) 岸井のアーちゃん(岸井明、すごく大きな身体の歌手兼コメディアン) それに喜春でした。 政則さん(段四郎さんのこと)は歌舞伎の将来を語り、お千代さんは何とかフランスのシャンソンまで日本の歌謡曲を引き上げたいとか、準ちゃんは天下国家を憂え、ロッパさんはもっぱら日本のコメディの将来を語り(今考えると、ロッパさんや岸井のアーちゃんは、ミュージカルのことを考えていたのです)、中略。 ただ五円の会費でも、ロッパさんと岸井のアーちゃんは「モナミ」の定食(スープ、サラダ、それにハンバーグのときもビフテキのときもあります。フルコースです)が終わりますと「サァ、喜春ちゃんとこへ行ってお茶漬け食い直そうよ。」なんて、わめくのです。ー そして、「モナミ」の定食では足りないと、同じ五円でもボリュームたっぷりという渋谷のロシア料理に行く。 ーするとアーちゃんは 「心配するな、自前で食べるから」なんて、スープを二杯おかわり、串焼き(バーベキュー)も四串ずつ、そのあと、ご飯もおかわり。お二人とも、さすがにニコニコして外にでました。とたんにアーちゃんが 「やっぱり喜春ちゃんとこでサラサラとお茶漬け食おうよ」 これじゃ同じことだと皆で大笑いしました。ロッパさんもアーちゃんも今の高見山さんくらい大きかったのです。ー 「モナミ」は昭和二年創業の銀座の「モナミ」であろう。宇野千代など文人たちが足繁くかよっていたという。この分のあとに同じ頃のこととして、阿部定の事件の日(昭和十一年五月)のことを書いてあるので、おそらくそのあたり、昭和11年ころのことであろう。昭和11年(1936)といえばその前年、岸井明のプロフィールの昭和10年の項に記したように、古川緑波は「笑の王国」を脱退し有楽座で東宝ヴァラエティを公演し、東宝古川緑波一座を旗揚げしている。そしてレコード歌手の徳山璉を引っ張り込んで「歌う弥次喜多」でコンビを組んで大人気を博している。また岸井明も役名は未確認だが「歌う弥次喜多」に参加して歌うスターとして人気が出て念願のレコードデビューを果たした。二人とも新しいチャレンジが成功して順風満帆のころのエピソードである。 しかし後年、岸井明も古川緑波もお約束のように糖尿病になって闘病生活を送り、古川緑波は戦後急速に精彩を無くし、昭和36年(1961)心臓病と肺炎を併発して満57才で亡くなった。岸井明はその前年の昭和35年(1960)に眼底出血で倒れ、3年後に引退、昭和40年(1965)に心臓衰弱で満54才で亡くなった。末路まで似てしまったふたりだった。 高峰秀子とのエピソード 大正13年(1924)生まれで、五歳で子役として映画デビューし、以来、数々の映画に出演し、長きに渡ってトップ女優として活躍した高峰秀子は、昭和12年(1937)松竹を離れ、P.C.L.=東宝に入社する。子役のいなかった東宝で、高峰秀子は可愛がられ「デコ人形」のデコと、秀子の「ヒ」を取っての「デコ」から「デコちゃん」と呼ばれるようになった。名付け親は山本嘉次郎監督(黒澤明の師匠的存在)と岸井明である、と高峰秀子の自著である『わたしの渡世日記(下)』(文春文庫、1998年)で明かしている。岸井明はそうとう高峰秀子を可愛がっていたようで、彼女が進学した文化学院の保証人の一人としても名乗りを上げている。 岸井明と高峰秀子はP.C.L.=東宝で「見世物王国」「虹に立つ丘」「孫悟空」「希望の青空」「ハナ子さん」「音楽大行進」「陽気な女」「東宝ショーボート」新東宝に移って「見たり聞いたりためしたり」と共演し、昭和24年(1949)「東京カンカン娘」では映画のなかで一緒に主題歌を歌っている。高峰秀子の歌の先生も岸井明と同じく奥田良三である。岸井明は奥田から習った本格的な歌唱法の一端を「東京ラプソディ」の中では披露しているが(日本のクルーナー唱法の藤山一郎も元気に歌っているから「東京ラプソディ」の曲調のせいかもしれないが)その後は岸井明らしい甘いクルーナー唱法で楽しくコミカルに唄っているのにたいして、高峰秀子はてらいもなく清く正しく歌っている。高峰秀子をも魅了した笠置シヅ子のパンチのきいた歌、灰田勝彦のヨーデルを甘く響かせた四者四様の「東京カンカン娘」を映画で聞くことができる。 舞台での共演は、高峰秀子の恋人役としても活躍した灰田勝彦とともに、昭和18年(1943)「桃太郎記」に出演している。主な配役は、高峰秀子(桃太郎)、榎本健一(猿・猿飛山の三吉)、岸井明(犬・ポチ丸)、灰田勝彦(雉・勇次郎)、淡谷のり子(森の精)であった。戦後は昭和21年(1946)8月、日劇の「ハワイの花」出演した。再開から間もない日劇は客席も満足にない状態だったが、娯楽に飢えた人々で日劇の周りに長蛇の列ができた。主演は高峰秀子(ハワイの女王アリイテア、マリクレール)と灰田勝彦(リタリロ王子)。助演は上原謙(世界的ヴァイオリスト、シャルル・ボーマン)、岸井明(アメリカの百万長者ジミー)、大山健二(詩人ドナルド)、坊屋三郎(映画監督のテディ)。灰田晴彦とニュー・モアナも出演し「ビューティ・フラ」「タ・フワフワイ」「ハノハノ・ハナレイ」などのハワイアン・ナンバーを演奏している。その演奏を聞いた和田弘がスティール・ギターの世界に入っていったという逸話が残っている。またその公演の様子を高峰秀子は『わたしの渡世日記(下)』にこうあらわしている。 ー昭和二十一年夏の「ハワイの花」は、戦後はじめてといわれた豪華ショーであった。丸の内の日本劇場は戦時中、気球をつくる軍需工場になっていたので座席はほとんど取り払われ、見るかげもなく荒れ果てて劇場といえるような代物ではなかったが、それでも娯楽に飢えた人々は一瞬の憩いを求めて場内に殺到し、入り切れない人々の行列は丸い日劇に沿ってトグロを巻いた。ー 灰田勝彦とのエピソード 灰田勝彦はハワイ生まれの日系二世で、兄の晴彦とモアナ・グリー・クラブを結成して本格的なハワイアンの演奏できるバンドとしての活動をするかたわら、流行歌・歌謡曲も歌い人気を博していたが、日本軍が灰田兄弟の故郷であるハワイを奇襲し、大東亜戦争が太平洋戦争に拡大していき、それまでのジャズ音楽は敵性音楽として規制がかかるようになった。立教の先輩、ディック・ミネは三根耕一と名乗り、灰田晴彦のモアナ・グリー・クラブは「南の楽団」と名前を変え、灰田勝彦は"敵性器具"のマイクとファルセットを奪われた。昭和17年(1942)唄える場所が少なくなった灰田勝彦を岸井明は舞台に誘っている。東京宝塚劇場での小夜福子主演の「木蘭従軍」の上演にあたり、藤島一郎が相手役の候補だったが、岸井明の推薦で灰田勝彦が起用された。また岸井明と同じ東宝から「たそがれの湖」で正式にデビューしたが、岸井明もその映画で共演している。そして灰田晴彦は「秀子の応援団長」で高峰秀子との恋人役で共演し、主題歌「燦めく星座」もヒットして俳優としても歌手としてもスターの道を歩んでいった。 灰田勝彦が「たそがれの湖」正式に映画デビューと書いたのには訳があって、(サンクリエイト、1983年)によると紙恭輔の話として ー勝彦はまだ立教の学生の時分、兄の晴彦とMGC (モアナ・グリー・クラブ)をやっていたとき、昭和九年に私(紙恭輔)が引っ張りにいって、PCL(東宝の前身)オーケストラに入れた。PCLオーケストラではギターを弾きながら。コンサートの時に歌を歌った。中略。その後、仕出しの役(端役のこと)でPCL映画に出してもらっているうちに独特のパーソナリティが認められ、主役をとるようになった。ー とあり、P.C.L..の映画に端役ながらも出演していたからである。 そして『灰田有紀彦/勝彦 鈴懸の道』を丹念に読んでいくと、もっと驚くことに、翌年の昭和10年の2月14日から27日まで、MGCの灰田勝彦を始めとした六名が浅草・常盤座の「笑の王国」に出演して、本人たち曰く「ソートウ受けたです。」と会報に記されている。 つまり灰田勝彦と岸井明は、もしかすると昭和9年、灰田勝彦がP.C.L.オーケストラに入ったころからすでに交遊があったのかもしれない。ふたりとも、マイクの登場とともにあみだされた自然な歌い方であるクルーナー唱法の名手であるビング・クロスビーがアイドルだったので、ビング・クロスビーやジャズ音楽の話で夜を明かすようなこともあっただろう。岸井明と勝彦の兄・晴彦がビクターと契約しデビューしたのが昭和12年(1935)で、翌年に勝彦がビクターと契約している。なんともひとが織りなす人生のタペストリーは面白い。 終戦後もすぐの昭和20年(1945)11月、それまで風船爆弾工場として接収されていた日劇で「ハイライト」という戦後初のステージにニューモアナと名前を変えた晴彦のバンドと岸井明、笠置シズ子が出演した。翌昭和21年(1946)2月、灰田勝彦は、轟由紀子と岸井明の「春の入場」にも出演、8月に晴彦とニュー・モアナともに「ハワイの花」にしたのだった。 岸井明と灰田勝彦には音楽や映画、舞台以外にも共通のものがある。それは相撲取りの横綱・東富士との友人関係である。日大相撲部に在籍し大将を務めた岸井明は、映画界に入ってもその巨体をいかしての相撲取りの役が多かった。そして相撲が好きな岸井明は国技館にもよく足を運び、当時大関だった東富士と仲良くなった。初めのうちは、岸井明のほうが知名度があり、体格もまさっていて東富士が「アーちゃんにそっくり」と言われることが多かったが、東富士が横綱になると今度は岸井明のほうが「東富士にそっくり」と言われるようになり、岸井明は複雑な面持ちだったとのエピソードが1992年発行の「東京芸人爆笑帳」(三一書房)にある。ふたりの写真を見比べてみるとふたりとも「アンコ型」でまんまるに膨らんだ顔がそっくりである。 灰田勝彦はその横綱・東富士に、プロ野球の南海と巨人で活躍した別所毅彦と俳優の鶴田浩二をくわえた四人は、たがいに仲がよく、義兄弟の契りを結んだという。そして昭和31年(1956)そのタイトルもずばり『四人の誓い』という映画に出演して話題となった。 灰田晴彦とバッキー白片とのエピソード ちなみに私が岸井明に興味を持つきっかけとなった「海辺は楽し」(1939)のバックの編曲は灰田勝彦の兄の灰田晴彦であり、その前年発売の「ホノルル・ムーン」は灰田晴彦とモアナ・グリー・クラブがバックの演奏をつとめている。余談ではあるが「海辺は楽し」の演奏のクレジットが音源が収められている「シング・シング・シング」の解説書には明記されていない。アレンジは前述したように灰田晴彦であるが、私が聞いたところでは1938年のレイ・キング・アンド・ヒズ・ハワイアンズのアレンジとよく似ていて、歌の唄い方もよく似ている。レイ・キングとは灰田兄弟と同じく日系二世のバッキー白片で、灰田兄弟に刺激を受け、音楽をするため昭和10年(1936)に日本に帰国した。日中戦争により昭和12年以後はアメリカからの洋楽が自由に手に入りにくい状態になり、レコード会社は覆面バンドに吹き込みをさせ、洋楽として売り出すようになった。そのひとつがレイ・キング・アンド・ヒズ・ハワイアンズで、レイ・キングとはバッキー・白片でスティール・ギターとベースを弾き、バンドメンバーはティーブ・釜やつ(艸かんむりに泡)(ギターとヴォーカル)、や灰田晴彦がスカウトした日系二世のジェリー・栗栖(ギター)などがいた。私の勝手な推測では、1938年発売のレイ・キング・アンド・ヒズ・ハワイアンズの「山はキラキラ KILA KILA HALEAKALA」の歌と演奏を聞いて気に入り、「山はキラキラ」という邦題からインスピレーションを得て「海辺はたのし」の歌詞をつくり、灰田晴彦を通じてレイ・キングことバッキー・白片に演奏を依頼したのではないだろうか。演奏のクレジットはバッキー名義ではレコードの専属契約上無理で、レイ・キング・アンド・ヒズ・ハワイアンズ名義では外国のバンドでないことがばれてしまうのでクレジットなしになったと考えられないだろうか。バッキー・白片は昭和14年(1939)に「竹の橋の下」「フラの天国」を発売しヒットさせる。そして翌年、バッキー白片は日本青年館で「第一回アロハ・ハワイアンズ発表会」を開催したが、その司会はなんと岸井明だった。これにはバッキー・ファン、ハワイアン・ファンも驚いている。「海辺はたのし」が録音されたストーリーが私の推測どおりであるとすれば、それが伏線になっているのかもしれないと思わせるような不思議な符合である。 妻・初霜菊子のこと エピソードの最後に岸井明夫人について記しておこう。岸井明の奥さんについての記述は後で紹介する三木鶏郎の『三木鶏郎回想録② 冗談音楽スケルツォ』(平凡社、1994年)にしかあらわれない。そこには ー私は時間の来るのを待って呼び鈴を押した。美人の奥さんが出て来た。 「三木さんですね、お待ちしていました」 馬鹿に丁寧である。ー とある。美人であることはわかったがそれ以外は何もわからない。ウェブで何回か検索して宝塚歌劇団の過去のメンバーのリストのなかに「岸井明夫人」というひとを見つけた。宝塚歌劇団22期生月組の初霜菊子である。入団は1933年で、1940年に退団したことが並記されていたが生年月日や出身地などはわからない。女優の故・南美枝(みなみよしえ、在団中は美空暁子)が同期である。1940年退団ということは、おそらくその年か翌年の1941年にふたりは結婚したのだろう。ふたりの間には子供はいなかったようである。 # by torubadour | 2011-02-05 10:31
2011年 02月 05日
岸井 明
本名:岸井明、愛称:アーちゃん、身長:六尺一寸(185cm)、体重:三十五貫(131kg) 明治43年(1910) *10月13日、旧東京市京橋区新富町に生まれる。父の辰雄は明治法律学校(現明治大学)で学び、弁護士を開業し、大正14年(1925)東京弁護士会長をつとめた。兄は岡本綺堂の弟子で江戸文化研究家の岸井良衛(よしえ)(明治41年日本橋生まれ)。良衛も大阪松竹や東宝で演劇人として活躍、TBSのプロデューサーや、菊田一夫に誘われ東宝演劇部のプロデューサーとなった。 大正12年(1923)13歳 *4月 青山学院中学入学。9月1日 関東大震災で家を失う。 昭和5年(1930)20歳 *日本大学を中退し日活京都に入る。日本大学では相撲部の大将であった。岸井明から相撲をやめ、映画界に入りたいことを告げられた兄・良衛は、懇意にしていた元横綱の大錦に相談したところ、岸井明は大きな体のわりに手首や足首が弱く相撲では大成しない、と言われた。事実、のちに撮影中や芝居中によく捻挫をしていたそうである。 昭和8年(1933)23歳 *前年に日活を辞めていた岸井明は、古川ロッパに誘われ劇団「笑の王国」の旗揚げに参加する。第二回公演の出し物「忠臣蔵」での岸井明の演技に対し、歌舞伎の心得があることを古川ロッパが褒めている。これは芝居好きの母親と兄の影響と、子供の頃の住まいの近くに新富座、歌舞伎座があり、菊五郎や左団次などの役者の家も近くにあったなどことなどが影響しているのだろう。ちなみに現・市川猿之助の父君、三代目市川段四郎と岸井明は小学校の同級生である。 *また同年、P.C.L.(ピー・シー・エル映画製作所、のちに合併して東宝となる。)の創立にも参加する。岸井明は声楽を奥田良三に師事しているが、奥田良三もベルリン大学卒業後、P.C.L.の第一回作品にアメリカ帰りの紙恭輔とともに参加しているので、このころに奥田良三に学んだのだろう。 *P.C.L.の第一回作品「ほろよひ人生」に出演。この作品を見てエノケンこと、榎本健一は音楽喜劇映画をやりたくなりP.C.L.と契約し「エノケンの青春酔虎伝」(昭和9年、1934)に出演し、その人気は東京から全国に広がった。またこの映画撮影のため監督の山本嘉次郎が日活からP.C.L.に移籍することにもなった。岸井明は二作目の「エノケンの魔術師」で共演している。 昭和10年(1935)25歳 *「笑の王国」を脱退した古川ロッパの東宝ヴァラエティ公演(7月横浜宝塚劇場、8月東京丸の内・有楽座、このあとすぐに東宝古川緑波一座となる)での「歌う弥次喜多」にレコード歌手の徳山璉(とくやまたまき、ビクター専属)とともに出演し(古川緑波が弥次さん、徳山璉が喜多さん)、好評を博した。 *昭和8年(1933)にアメリカ留学から帰国した紙恭輔が結成した映画会社専属オーケストラのP.C.L.管弦楽団が、この年の4月からラジオに進出。ゲストで岸井明も出演した。 *同年、ビクターから「ダイナ」でレコードデビューする。以後ビクターに約20曲(私が確認できているもので)のジャズ・ソングを録音している。翌年の録音からは自分自身の訳詞で唄っている。 昭和11年(1936)26歳 *二・二六事件。 *日活映画「からくり歌劇」で初主演。これは松竹がレンタルで岸井明を起用した音楽喜劇映画で脚本は菊田一夫で音楽は古賀政男である。 昭和12年(1937)27歳 *7月、盧溝橋事件勃発。11月、大本営設置。 *この年、松竹からP.C.L.に移籍した高峰秀子に岸井明は「デコちゃん」という愛称を与える。 *このころから藤原釜足と「ジャガタラコンビ」を組んで映画に主演するようになる。 *12月公開の灰田勝彦の正式なデビュー作である「たそがれの湖」(東宝)に出演する。 *P.C.L.が大沢商会のJ.O.スタジオ、東宝映画配給と合併して東宝映画となる。 *兄の岸井良衛が大阪の松竹から東京の新興キネマに移る。そして翌年には嘱託で東宝映画に入る。 昭和13年(1938)28歳 *4月、国家総動員法公布。翌月施行。 *東宝「虹に立つ丘」に主演する。共演は高峰秀子、神田千鶴子。監督は日活から東宝に移籍した大谷俊夫。 昭和14年(1939)29歳 *7月、国民徴用令公布、実地。 *東宝「唄え河風」に主演する。共演は花井蘭子。音楽は紙恭輔。 昭和15年(1940)30歳 *9月、日独伊三国同盟調印。10月大政翼賛会発足。 *南旺「笑ふ地球に朝が来る」に主演する。 *エノケン主演の「孫悟空」に猪八戒役で出演する。 *妻となる宝塚の初霜菊子がこの年、宝塚を退団している。また、翌年の岸井明の映画作品の本数は3本だけである。ふたりはこの年か、または翌年に結婚したのかもしれない。 昭和16年(1941)31歳 *12月、太平洋戦争はじまる。 昭和17年(1942)32歳 *4月、東京などがはじめて空襲される。 *この年の映画出演は2作だけで、「希望の青空」では原節子、高峰秀子と、「水滸伝」でエノケン、高峰秀子と共演している。 *徳山璉死去、享年39歳。 昭和18年(1943)33歳 *ジャズなどの米音楽約千種、演奏禁止。 *この年も映画出演は2作だけで、歴史的音楽喜劇「鴛鴦歌合戦」を監督したマキノ正博の音楽映画「ハナ子さん」は『銃後のハナ子さん』の映画化で、出演は轟由紀子、灰田勝彦、高峰秀子。渡辺邦男監督、服部良一音楽の「音楽大行進」では長谷川一夫、古川緑波、高峰秀子と共演した。高峰秀子とは4作連続共演である。 *エノケン主演の東京宝塚「桃太郎記」でも高峰秀子、灰田勝彦と共演する。 昭和19年(1944)34歳 *1月、東京・名古屋に初の疎開命令。8月、学童の集団疎開はじまる。 *決戦非常措置要項発令が発令され、歌舞伎座、国際劇場、明治座、新橋演舞場、有楽座、東京宝塚劇場、日本劇場、大阪劇場、宝塚劇場など19劇場が向こう一年間閉鎖される。 *大映「土俵祭」で片岡千恵蔵と共演する。脚本は黒澤明。 昭和20年(1945)35歳 *2月26日、父・辰雄が死去する。享年66歳。 *3月、東京大空襲。8月、広島・長崎に原爆が投下される。ポツダム宣言受諾。 *東宝「突貫駅長」に出演。古川緑波『悲食日記』に「突貫駅長」のロケでの岸井明とのエピソードが書かれている。 昭和21年(1946)36歳 *2月、アメリカ映画の上映復活。 *日劇「ハワイの花」で高峰秀子、灰田勝彦と共演する。 *NHKラジオ「歌の新聞」に出演。「涙はどんな色でしょか」を唄う。 昭和22年(1947)37歳 *有楽座でエノケン主演の菊田一夫作「孫悟空」に出演する。 昭和23年(1948)38歳 *森川信との「のらくらコンビ」で、松竹「彼と共に去りぬ」「のらくら海浜騒動」「遊侠の群れ」に出演する。 *9月、二村定一が死去する。 昭和24年(1949)39歳 *のらくらコンビで、松竹「我輩は探偵でアル」「踊る龍宮城」など。美空ひばりが「踊る龍宮城」に出演。美空ひばりがこの映画の主題歌「河童ブギウギ」でレコードデビュー。 *新東宝「銀座カンカン娘」で高峰秀子、笠置シヅ子、灰田勝彦とともに出演し、四者四様の歌声で「銀座カンカン娘」を披露する。 昭和25年(1950)40歳 *3月29日、母が死去する。 *のらくらコンビで、松竹「頓珍漢桃色騒動」「放浪の歌姫」「大岡政談 将軍は夜踊る」に出演する。 *森繁久彌の初主演映画、新東宝「腰抜け二刀流」に出演して「ジャングル・ブギー」を唄う。 *NHKラジオ「とんち教室」出演、他に清川虹子、大辻司郎など。 昭和26年(1951)41歳 *9月、サンフランシスコ講和条約調印。日米安全保障条約締結。 *この年は1作だけで(資料の欠如だろうか疑問である)、灰田勝彦主演の「歌う野球小僧」に出演する。 昭和27年(1952)42歳 *この年は4作に出演しているが東宝、新理研映画、宝プロ、松竹とすべて異なる映画会社の作品である。 *4月、大辻司郎が日航もく星号で墜落死。享年54歳。 昭和28年(1953)43歳 *「第4回NHK紅白歌合戦」に出場、「洒落男」を唄う。他に灰田勝彦、ディック・ミネ、藤山一郎、浜口庫之助、笠置シヅ子、服部富子、江利チエミなど。紅白歌合戦はこのときから、大晦日開催の、テレビ・ラジオ同時放送となった。 昭和29年(1954)44歳 *この年前後から東映映画に多く出るようになる。 *東宝「落語長屋は花ざかり」に出演。主演は古川緑波で、製作は兄・岸井良衛。 昭和30年(1955)45歳 *この年の出演作のうち新東宝2作は森繁久彌主演で、東映8作のうち東千代之介主演4作、伏見扇太郎4作という偏った結果となっている。 *兄・良衛、KRTV(後のTBSTV)に入社、プロデューサーとなる。 *ハナ肇とクレージーキャッツ結成。 昭和31年(1956)46歳 *この年の7月20日公開の美空ひばり主演、東映「宝島遠征」と伏見扇太郎主演、東映「冒険時代劇 日輪太郎」の二本立て両方に出演した。この年以後はすべて東映作品への出演である。 昭和32年(1957)47歳 *内田吐夢監督、片岡千恵蔵主演、東映「大菩薩峠」シリーズが始まる。 *1月、小林一三が死去する。享年84歳。 *6月、川田晴久(義雄)が死去する。享年50歳。 昭和33年(1958)48歳 *この年はなんと16作品に出演。主演も中村錦之助、中村嘉葎雄、大川橋蔵、高倉健、美空ひばりと、新しいスターの時代になった。 昭和34年(1959)49歳 *東映「大菩薩峠 完結篇」に出演。シリアスな演技が高い評価を受ける。 昭和35年(1960)50歳 *眼底出血で倒れる。 昭和36年(1961)51歳 *映画の出演なし。 *1月16日、古川緑波が死去。享年57歳。 *9月、新東宝が倒産する。 昭和37年(1962)52歳 *映画の出演なし。 昭和38年(1963)53歳 *最後の映画、東映「続・てなもんや三度笠」に出演。 *引退 昭和39年(1964)54歳 *10月、東海道新幹線開業する。東京オリンピックが開催される。 *9月、ザ・ドリフターズ結成 昭和40年(1965) *7月3日、心臓衰弱で死亡。満54歳。 # by torubadour | 2011-02-05 10:28
2011年 02月 05日
![]() はじめに 前回、芸術学Aのレポート「灰田晴彦・勝彦兄弟と戦前ハワイアン音楽」を書くために、CD『アロハ・オエ~ハワイアン・イン・ジャパン(戦前篇)』(ビクターエンタティメント株式会社、2000年)を参考資料として聴いたとき、岸井明が軽妙に唄う「海辺は楽し」という曲に魅了されてしまった。「海辺は楽し」はトラディショナル・ハワイアンの「Kilakila 0 Haleakala」を岸井明自身が訳詞をし、灰田勝彦がアレンジした曲で、ハワイ語の題名の意味は「堂々とした山、ハレアカラー」で、ハワイ諸島のマウイ島にある標高3055mのハレアカラー火山を唄ったものだが、岸井明は「Kilakila=キラキラ」という語感を活かし、山の名前の「ハレアカラー」に語呂を合わせて「晴れやかに」と洒落ている。そして二つの言葉を、「と」で結ぶことで夏の海のまぶしさを絵画的にあらわした。そして、海辺で楽しむ光景をユーモアに富んだストーリーにして、喜劇俳優らしく表現豊かに、つまりコミカルに楽しく唄っていた。 キラキラと 晴れやかな 朝の陽は 照り輝く サァサ 張り切れ 朗らかに 若い夏の一日を ニコニコと あの娘 可愛い笑くぼを見せて サッと 飛び込み 顔を上げて おいでおいでと 僕を招く ブルブルッと 震えたが ここでやめては 男の恥だ ヤッとかけ声 もろともに 高い台から 身を躍らせた クラクラッと 目がまわり (トランペットで目がまわっている様子を表すような演奏) 遠くかすかに ワヤワヤと 夢かうつつか 誰かが呼ぶ モヤモヤと 気がつけば 誰か知らぬが お医者の顔が そばにゃ ぽつんと ただ一人 心配そうな さっきの娘 キラキラと 晴れやかな 朝の陽が 僕らに当たる お手々つないで 鮮やかに サッと飛び込め 飛沫(しぶき)が上がる 歌詞を読んだだけでもニンマリしてしまいそうな映像が浮かんでくる、なんとも楽しい唄である。 また、芸術学Bの講義のなかで見た映画『東京ラプソディ』(1936年、東宝)『銀座カンカン娘』(1949年、新東宝)『躍る龍宮城』(1949年、松竹大船)にも俳優として出演し、また映画のなかで主題歌である「東京ラプソディ」(1936年、門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)、「銀座カンカン娘」(佐伯孝夫作詞、服部幸一作曲)を唄っている。その姿を見れば、とにかく大きい。そして太っている。なのに劇中で「東京カンカン娘」を唄うときのリズムの取り方が軽やかで、その唄はフワフワと漂うようで楽しい。喜劇俳優であり歌手でもあり、訳詞や作詞もこなした、このユニークな「岸井明」とはいったい何者なのだろうか、と私のなかで大きな興味となっていった。 岸井明のプロフィールと年譜 まず岸井明のプロフィールを見てみよう。残念ながら岸井明を中心に据えて書かれている書物はない。現在CD化された音源に付属しているライナーノート、日本の映画史や喜劇史・軽演劇史、またはそれに関するエッセイや主要人物の伝記などにちょいと顔を出してくる「岸井明」を探し当てていき(まさにこの一ヶ月以上はそのような資料探し、「岸井明」探しをしていた。)正誤を確かめながら記述していきたい。 まず、CD『シング・シング・シング~昭和のジャズ・ソング名唱選』(ビクターエンターティメント株式会社、2000年)の瀬川昌久氏のライナーノートにはこのようなプロフィールが書かれてある。 ー戦前からアーちゃんの愛称で、太った巨体と童顔で親しまれた岸井明は、ジャズとコメディ・センス抜群のボードビリアンだった。明治43年(1910)10月13日東京生まれ、182センチ、129キロの巨漢で、日大相撲部を経て昭和5年(1930)日活入社、昭和8年(1933)P.C.L.に移って第一回作品「ほろよひ人生」に主演 [これは出演の誤りで、主演は藤原釜足である。平川:注] 、「世の中の唄」(P.C.L.)で主役をつとめた。古川緑波(ロッパ)一座の有楽座「唄う弥次喜多」に唄うスターとして出演して認められ、ビクター専属となって、たくさんジャズ・ソングを自分の作詞でコミカルに唄って人気を得た。引き続き東宝映画 [1937年P.C.L.がその他3社と合併してできた。]、戦後は日劇に出て歌い、映画テレビでも活躍したが、昭和40年(1965)55才で亡くなった。本格的声楽を昭和9年(1934年)から奥田良三に学んだ上、持ち前のリズミックなセンスを発揮したユニークなジャズ唱法には得難い味があった。ー なるほど私が感じていたことがその通りであり、またそれ以上に広い活躍の場と才能を持っていたようである。さらに「岸井明」を探し出して行こう。 つぎに、映画、喜劇好きの作家、色川武大(1929~89)の『なつかしい芸人たち』(新潮文庫、1993年)には「誰よりトテシャンな ー岸井明のことー」というタイトルで9ページに渡って岸井明について書かれてある。岸井明のプロフィールに関して、 ー岸井明は日大の相撲部の選手で、たぶん、そこの先輩の田村邦男にでも誘われたのであろう、田村と同じ日活時代劇部に入る。その後、労働争議を機に日活を辞め、島耕二 [後に岸井明も出演した「銀座カンカン娘」を監督]ら7人で新映画社を創るもののすぐに潰れ、浅草の笑の王国に参加、同年PCL(東宝の前身)創立に参加して第一回の「ほろよい [ひ]人生」に、笑の王国の同僚古川ロッパたちと出演する。ー と書いてある。そして、その映画会社P.C.L.(正式には、株式会社ピー・シー・エル映画製作所。P.C.L. は Photo Chemical Laboratory の略。)の前身が録音研究所 [正確には写真化学研究所といって、現像とトーキーの録音機材の研究と、録音を請け負っていた。]で、音がよかったために音楽喜劇路線を敷き、軽薄なほどモダンで、ロッパやエノケン、藤原釜足などの浅草レビュー役者はP.C.L. でなかったら生かされなかったであろう、と述べ、岸井明もその一人で、映画ばかりではなく、ロッパ一座の当たり狂言「唄う弥次喜多」にも出演し、唄うタレントとしても売り出した、とある。また、岸井明がその当時多かったデブのコメディアンとは違って、ただのデブではなく「才」があったことを、 ー岸井明も、大男総身に知恵がまわりかね、のように見えるが、弁護士の息子 で、長兄は江戸文化研究家の岸井良衛(よしえ)氏である。彼自身もなかなかの才人で、ジャズに熱中し、後半自分の歌うジャズソングの詞はほとんど自分でつけていた。ー と書いている。兄の岸井良衛は江戸に関する書物のほかに青蛙房から「大正の築地っ子」(1977年)という大正時代の自伝的な本を出版しており、そのなかに弟・明についても記述がある。すでに述べたものと重複したり、また省いたりしてしまうが、こういったいくつかの岸井明のプロフィールをつなぎあわせたり、間違いがあればそれをただしながら、私なりに整理してバイオグラフィをつくってみたい。 # by torubadour | 2011-02-05 10:27
2010年 12月 23日
稚拙でお恥ずかしいですが、Ryoちゃんに読んでもらうためであります。
太平洋戦争の原子爆弾使用におけるレイシズムの影響についての考察 はじめに 今回の「アメリカ史B」のレポート課題の作成にあたり、まず私と同じく文学部史学地理学科地理学専攻で学ぶ友人(女性)にアメリカのイメージをインタビューした。彼女は「アメリカが嫌い」でその理由として二酸化炭素の排出問題、オバマ大統領のノーベル平和賞受賞の是非、日本におけるアメリカ軍基地の問題、そして一般市民を無差別に殺した原子爆弾を二発も落としたことなどをあげた。そしていまもまだその原爆で被爆した人たちが苦しんでいることに強い怒りを持っていた。 また先日、私がアメリカ史の課題で『アメリカの大統領』について調べたとき、副大統領のシステムを知り、「言論の表現の自由」「宗教・信仰の自由」「欠乏からの自由」「恐怖からの自由」というアメリカが守るべき四つの自由を掲げ、太平洋戦争中三選を果たしたフランクリン・D・ローズベルト大統領が1945年の春に急死し、副大統領のハリー・S・トルーマンが大統領に昇格して、広島・長崎への原爆投下を命令したことを知った。またこの課題カードの提出日の講義が「第二世界大戦と核の脅威」というテーマでおこなわれ、原子爆弾使用の決定にはいくつかの説があることを知った。またアメリカの対日イメージについて、黄色人種である中国人や日本人を脅威に感じて排斥しようとする黄禍論や日本を仮想敵国とした軍事立案である対日オレンジ計画の存在を再確認した。 こうして私の中に「アメリカはなぜ日本に原子爆弾を投下したのか」という強い疑問が湧いて来た。1945年8月6日広島に、3日後の9日長崎にアメリカ軍によって原子爆弾が投下され、 同日ソ連が参戦し、日本は8月14日にポツダム条約を受諾し太平洋戦争は終結した。この二度の原爆投下によって、広島では約35万人が被爆し、約10万人が死亡したと推定され、長崎では約24万人が被爆し、約7万人が死亡したと推定されている。被害者のほとんどは一般市民であり、その多くは女性・子供であった。太平洋戦争が終わろうとしているときに、なぜアメリカは日本にこれほど殺戮性が非常に大きい原子爆弾を落としたのであろうか。 J・サミュエル・ウォーカー、林義勝監訳、2008年、「原爆投下とトルーマン」(彩流社)によれば、当時のアメリカ大統領トルーマンが日本に対して原子爆弾の使用を決定した基本的な考えとして次の五つをあげている。(1)できる限り早く戦争を成功裏に終結させようという決意、(2)原子爆弾の開発にかかった努力を正当化する必要性、( 3)ソ連との競合がはじまる中で外交上の利点を得たいという願望、(4)原爆を使うべきではないという動機の欠如、5)日本への憎悪と復讐心 、である。そして、この「1945年夏に存在した状況から生じた五つの基本的な考えが、たいした考慮もされることなく、新兵器のもたらす利点と潜在的な問題点について側近に相談することもなく、トルーマンを原爆の即時使用へと突き動かした。」と述べている。 私はこのウォーカーの「原爆投下とトルーマン」を読んで、原爆投下の要因として(5)日本への憎悪と復讐心、という考えに非常に興味を持った。それは対日戦が日本軍による真珠湾攻撃という奇襲から始まったということと、戦争中11万人を越すアメリカの日系人が敵性外国人として収容所に入れられたという事実を知っていたからだ(アメリカ史B第二回課題『アメリカの地域について』にて提示)。もしかすると日本への原爆投下にいたった要因に、太平洋戦争以前からの黄禍論などの日本人に対するレイシズムが底辺にあるのではと考えた。 私はこのレポートでJ・サミュエル・ウォーカーがあげるこの五つの考えがどのような経緯と状況のなかでつくられていき、どの考えが要因となり原爆使用の決定に至ったのかを照査していきながら、わたしがその底辺にあると思うレイシズムについて考証していきたい。 原子爆弾使用の要因とその照査 (1)できる限り早く戦争を成功裏に終結させようという決意 トルーマンは対日戦の最終勝利にむけて本土侵攻を検討していたがそれはアメリカ軍に新たな犠牲者が増えることを意味していた。本土上陸作戦の代替案は、1)爆撃と封鎖の継続と強化、2)ソ連の対日参戦を待つ、3)無条件降伏の緩和、の三つがあったが、アメリカの第一の戦争目的は完全な勝利であり、さらにアメリカ人犠牲者を最小限に押さえることで、トルーマンにはいずれの代替案も本土侵攻よりも見込みが少なく思えた。しかし第四の案が浮上した。それが原爆の使用であった。 しかし、ヘレン・アミーズ、伊藤延司訳、2005年「新版 アメリカの鏡・日本」(角川学芸出版)によれば、1946年7月に刊行された合衆国戦略爆撃調査団の総括報告は、原爆はポツダム宣言の受諾を「早める」よう「さらにせかせた」だけだった。しかし、同報告は、原子爆弾が投下されなくても、日本は1945年12月31日以前、「あらゆる可能性を考えにいれても1945年11月1日までに」無条件降伏をしていただろうという意見を付けている、と述べている。 そしてウォーカーは、トルーマンは「アメリカにとっての犠牲を少なく戦争を終わらせる手段を模索していたが、原爆の使用を回避する手段を求めていたのではなかったのである。」と述べている。 以上のことから、トルーマンは「できる限り早く戦争を成功裏に終結させようと」していたが、それが原爆を投下することには必ずしも直結せず、単独での理由にはならないと私は考える。 (2)原子爆弾の開発にかかった努力を正当化する必要性 マンハッタン計画と名付けられた原子爆弾の開発の発端はナチス・ドイツが原子爆弾を開発するかもしれないという恐れからであった。ローズベルト大統領は1944年12月に開発者から1945年の8月1日までに準備可能であるとの報告を受けていた。トルーマンは大統領に就任するまでその事実を知らず、就任直後に側近からその存在と非常に強力な爆弾であることを側近から知らされた。 莫大な資金と軍需物資を使用した原子爆弾の開発は1945年7月16日に実験が成功し、原子爆弾の使用が現実化される準備ができた。しかし、ドイツはすでに1945年4月に降伏していた。 ウォーカーは、莫大な建造費を要した兵器の使用に尻込みしたならば、さらに多くのアメリカ兵の死をもたらしたとして、トルーマンへの国民の信頼は大きく損なわれただろう、としている。しかし、同書のp99には、原爆投下の標的リストの第一候補の広島は、原子爆弾の破壊力をより劇的に実証するため、B-29による通常爆撃の標的からはずされていた、とある。また、小倉が標的リストに入っていたのは、関門トンネルに対する原爆効果を知るためであった。 以上のことから、「努力の正当化」は、日本への投下は実際の戦争において、より原子爆弾の威力を証明できる実験をおこなうことに向けられたのではないかと私は考える。 (3)ソ連との競合がはじまる中で外交上の利点を得たいという願望 アメリカは太平洋戦争終結のためソ連と協調し、対日参戦を要望していたが、外交面では中国やアジア諸地域におけるソ連の影響が増すことが懸念された。ドイツのポツダムで米英ソ三ヵ国の首脳会談中に原爆の実験の成功を知ったトルーマンは、急遽ソ連の対日参戦を拒み、その引き延ばしに出た。 しかしウォーカーは、トルーマンは原爆の使用によってアメリカの軍事的・外交的な立場を好転させるか、悪化させるかどうかを研究するようスタッフには命じなかった。つまり、ソ連の力を抑制するために原爆を使用したのではなく、結果的にそうなったとしてもそれは「予期せぬ贈り物」であった、と述べている。 また、アメリカの原爆の使用は、ソ連の原爆開発に拍車をかけ、ソ連を中心とした共産主義陣営の勢力拡大をすすめた。これに対しトルーマンは「封じ込め政策」(トルーマン・ドクトリン)を採用したが東西の冷戦という緊張状態がうまれた。 以上のことから、ソ連の対日参戦によって戦争が終結することにより、トルーマンは原爆投下のチャンスを失いたくなかったと考えられないだろうか。つまりトルーマンはソ連が参戦して日本が負ける前に原子爆弾の実証的実験をおこないたかったのだと私は考える。 (4)原爆を使うべきではないという動機の欠如 以上の三つの考えからもわかるように、トルーマンが原爆の使用を考えるなかで、それを使用すべきではないという動機は見られず、それどころか原子爆弾の使用が積極的に考えられたように思われる。 また、民間人への無差別爆撃についての道徳的な配慮についても、1945年3月の東京大空襲で10万人の一般市民が殺されたように、民間人への爆撃はすでに慣例となっていたのである。 しかし、民間人への攻撃は避けるという道徳的な配慮がなくなっていたとしても、多くの民間人を殺してしまうという良心の呵責はなかったのだろうか。またそれがあったとしてもそれを凌駕するほど日本を無条件降伏させたいという願望の本当の理由はなんだったのであろうかという疑問が残る。 (5)日本への憎悪と復讐心 ウォーカーは、日本人に対する憎悪、真珠湾攻撃への報復を果たしたいという願望、そして人種主義的発想は原爆投下を導いた様々な動機の一部である、と述べ、原爆投下直後のトルーマンの、真珠湾の不当な攻撃と、米国の戦争捕虜の殺害に触れ「獣に対処しなければならないときは、相手を獣として扱わなければならない。」という発言を紹介している。 また同書の第三章でジョン・W・ダワーの「容赦ない戦争」のなかの人種差別的憎悪についての記述を引用しながら、太平洋戦争が恐ろしく残酷で、それはヨーロッパよりも残酷で非人間的だったと、述べている。 そして真珠湾爆撃という奇襲攻撃と、帝国陸軍の日中戦争における民間人への攻撃、中国人への強姦、拷問、殺戮をした「南京虐殺」や、捕虜に対する行為などさまざまな残虐行為は、アメリカ人を激怒、憤慨させ、ドイツ人に対する敵意をはるかに越えた、極めて強烈な憎悪を日本人に対して持つようになった。アメリカ政府は「バターン死の行進」など、日本人のアメリカ人捕虜に対する残虐行為を明らかにし、対日憎悪感を煽った。それ以外にも日本人への人種的な理由による嫌悪感があり、その人種差別的既成概念や敵意は太平洋戦争において重大な要因だったと述べ、アメリカ人が日本人を「黄色いネズミ」「黄色いサル」「黄色い蛆虫」と呼んだり、描いたりして人間とは見なさなかった。 やはり私は原爆投下決定にいたる過程のなかにこの日本人に対する憎悪と復讐心があり、復讐心も憎悪のなかに取り込まれ巨大化していったのではないか、そしてそこにはレイシズムが深く潜んでいたのではないかという疑問をぬぐえない。もう少し日本人への憎悪がうまれた原因ついて調べてみたい。 増幅される偏見と巨大化する憎悪 ロナルド・タカキのその著書「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」(1995年、草思社)のなかでやはりジョン・W・ダワーの「人種偏見」(「容赦ない戦争」)を引用しながら、日本が英米の拡張主義を非難しながら自らも帝国主義を押し進め、日本民族の他の民族より優れているとの優越主義の立場をとり、欧米人を「鬼畜」「獣」とし、それを殲滅する全面戦争が太平洋戦争であるととらえていたと述べている。そしてアメリカ人も日本人を「悪魔」「野蛮人」「劣等民族」とし、「出っ歯でチビで黄色い野蛮人で、ずるがしこい悪魔」として漫画に描かれており、このような人種偏見はドイツとの戦争にはみられなかったと、「日本人との戦いは人種戦争で、白人対黄色人種の戦いであり、黄色人種は劣等人種だ」という従軍した者の言葉を紹介している。そして黄禍論によって日系人が差別され迫害され、太平洋戦争が始まると強制収容された歴史を綿々と綴っている。 また「人種偏見」の著者であるジョン・W・ダワーの新しい著書である「昭和 戦争と平和の日本」(明田川融監訳、2010年、みすず書房)には、日本の侵略行為は白人優越主義という優越意識の奥底に潜んだ感情を刺激し、終末論にも似た反応を引き出し、日本と英米のあいだに善悪二元論的な人種問題が他の争点を凌駕した。しかしこれは双方ともにいえることで、日本人もまた人種差別主義者であり、白人の敵に対しても、いわゆる大東亜共栄圏のアジア人に対しても日本人は差別をおこなった、と述べている。さらにダワーは、太平洋戦争初期の日本軍の衝撃的な勝利により日本人を「超人(スーパーマン)」と見なし、それを利用して連合国の政策立案者たちは、戦闘継続のため日本人の意志と能力を過大評価し続けたとしている。その理由を人種差別とし、スーパーマンのイメージは白人が抱く最大の人種差別である黄禍の亡霊として影響力が大きく、日本人に対する憎悪は日本の残虐行為だけではなく、もっと深い反オリエンタリズムの根を持っていたと述べている。 アメリカの女性歴史家のヘレン・ミラーズは日本敗戦後の三年目の1948年に原著が発行された「新版 アメリカの鏡・日本」(伊藤延司訳、2005年、角川学芸出版)のなかで、「つくられた脅威」として「日本の脅威」に対する恐怖は異常に誇張されていて、実際は日本兵は無敵のスーパーマンなどではなく、食べものもなく満足な装備もなかった。また、死者が多かったのは「降伏よりも死を選ぶ」という狂気の覚悟ではなく、アメリカの火力がまさっていたからであり、日本兵が疲労、恐怖、ヒステリーから集団自殺(集団自決行為)を図ったからだと述べ、その動機の原因は、日本のプロパガンダがアメリカと同じように、敵であるアメリカの野蛮さと残虐さを協調していたことであり、そのプロパガンダに対してアメリカ人は一人でも多くの日本人を殺すことで応え、日本人は自分たちを殺すことで応えた、と述べている。そして、どちらが戦争を始めたはともかく、私たち(アメリカ)の戦争目的は、日本のアメリカ征服を阻止することではなく、日本を征服することだった、と述べている。 以上のことから日本人に対する人種差別が原爆投下の主たる要因とは断定できないが、他の考え、特に(1)から(3)の考えが絡み合いながら原爆投下が決定されたのだとしても、日本人に対する人種差別の感情がその決定をそそのかし、正当化させたことはうかがえる。よって私は日本人に対する人種差別が原爆の投下の決定に強い影響を与えたと結論づける。 おわりに 今回のレポート作成にあたり、原爆投下の要因に人種差別があったことが確認できたが、それはアメリカ人から日本人への他者へのまなざしだけではなく、日本人からのアジア人へのまなざし、アメリカ人やイギリス人へのまなざしがあり、つまり日本人からの人種差別が存在し、互いが互いを残虐な獣のように見なし、恐怖心を煽ることによって、相手と闘い抜く闘争心をさらに煽っていたことを知った。 このような状況のなかでたった一発の爆弾で10万人以上を一瞬にして殺戮してしまうという強力な武器を初めて手にしたとき、道義的判断力を失い、その使用の可能性をさぐり、人種差別を利用してその使用を実行し、決して食べてはいけなかった禁断の果実を味わってしまった。戦争という非常事態はそうして人の本性を暴きだしたり、また予期せぬ結果を生み出したりするものであり、核兵器に対しての抑止力の存在の詭弱さを思い知らされた。 またレポート作成中にアメリカ出身の青年に太平洋戦争と原爆についてインタビューしたとき、広島と長崎に原爆については高校で知ったが、原爆と同じくらいの死亡者がでた東京大空襲を知るアメリカ人は少ないと語った。それはわたしたち日本人にとっても同じである。わたしたちが知らなければならないこと、そして伝えなければならないことがあることをあらためて痛感した。 参考資料: J・サミュエル・ウォーカー、林義勝監訳、2008年、「原爆投下とトルーマン」彩流社 ウィリアムソン・マーレー、石津朋之監訳、2005年、「日米戦略思想史ー日米関係の新しい視点」彩流社、”第五章第二次世界大戦における米国の戦略とリーダーシップ” クリストファー・ソーン、市川洋一訳、1991年、「太平洋戦争における人種問題」草思社 クリストファー・ソーン、市川洋一訳、2005年(普及版)、「太平洋戦争とは何だったのか」草思社 ケネス・J・ヘイガン、イアン・J・ビッカートン、高田馨里訳、2010年、「アメリカと戦争 1775-2007 『意図せざる結果』の歴史」大月書店 G・ケナン、近藤晋一・飯田藤次・有賀貞訳、1952年、1986年(増補版)「アメリカ外交50年(増補版)」岩波書店 ジョン・W・ダワー、明田川融監訳、2010年「昭和 戦争と平和の日本」みすず書房 ジョン・W・ダワー、猿谷要監訳、斎藤元一訳、1987年「太平洋戦争に見る日米摩擦の底流 人種偏見」TBSブリタニカ (2001年「容赦ない戦争 太平洋戦争における人種差別」平凡社ライブラリー) ヘレン・アミーズ、伊藤延司訳、2005年「新版 アメリカの鏡・日本」角川学芸出版 ロジャー・ダニエルズ、川口博久訳、1997年「罪なき囚人たち 第二次世界大戦下の日系アメリカ人」南雲堂 ロナルド・シェイファー、深田民生訳、1996年、「アメリカの日本攻撃にモラルはあったか」草思社 ロナルド・タカキ、山岡洋一訳、1995年、「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」草思社 五十嵐武士、1999年、「日米関係と東アジア」東京大学出版会 麻田貞雄、"きのこ雲と国民心理 ー原爆投下をめぐる日米のギャップ、一九四五ー九二年ー"、pp81~107、上智大学アメリカ・カナダ研究所編、1993年「アメリカと日本」彩流社 猿谷要、2002年、「アメリカ大統領」新書館 # by torubadour | 2010-12-23 10:20
2010年 10月 02日
いやいや、きのうはオールで始発でした。
靖国神社南門前の「涙兎」で日付が変わるまで飲み、巣鴨に移動。おかまちゃんのやってるスナックで唄い、午前三時過ぎに人気のないとげぬき地蔵に詣ってきました。別に悪い所はないのでお地蔵さんを「毎日ご苦労さま」と全体的になでなでしてきました。ジョナサンでスイーツ食べながら始発待ちして勉強部屋に戻りました。花金だったので渋谷、新宿はみな始発待ちの人が多かったですね。京王は座れませんでした。みなさんお疲れ様。 ![]() # by torubadour | 2010-10-02 12:55
2010年 10月 01日
もう4ヶ月くらいブログを書いていない。それでも毎日アクセスがある。9月は一日平均20くらい。
不思議だなあ。 まあ、ぼちぼち再開するかな。 今日はこれから九段に行って先週の「周防大島珍道中」の打ち上げ会です。 石垣島出身のサッちゃんの店「涙兎」(なみう)で隊長カオルーン・ユミさん、アグ姐、聞き役に裕子さんです。 さてさてお出かけするかな。 ![]() # by torubadour | 2010-10-01 18:42
2010年 06月 06日
ありゃりゃ、もう6月ですね。
ブログ再開したらマックが壊れまして(徹夜のレポート作成でマックも疲れたのでしょう。)、渋谷の方に親切にしてもらって復活しました。と、それから一週間たってしまいました。アップしたいことはいろいろあれど、まあぼちぼちいきます。もしかしたら思い出しながらアップするかも。 昨日は勉強部屋のオーディオを結線しました。月曜日にALTEC A8(初代 8オーム)をガレージに搬入しましてやっと昨日結線できました。いい感じです。 詳しいことはまた明日。 ![]() ![]() ![]() # by torubadour | 2010-06-06 08:25
2010年 05月 20日
はい、みなさんコンバンハ!
今さっき「栃木市中心街における歴史的建造物・蔵の分布」というレポートを書き上げました。 いえい! でも課題がまだ一つのこってます。あは〜ん。 レポートアップ第三弾!「清里演習レポート」特別編 『アンノン族異論』です! 「旅ブームとアンノン族と清里」 清里には30年前のブームに翻弄されて乱立し、ブームが去って久しく、その姿は朽て老いさらばえ、いまは捨てられたようにその醜態をさらしている”メルヘン”な構造物群がある。かつて清里を訪れる多くの人たちの憧れや楽しみを具現化したワンダーランドが辿った道のりを歩みながら、清里に”メルヘン”ブームが起こった時代背景と旅ブームの変遷を考察する。 「1970年 日本民族大移動」 1970年(昭和45年)、3月から9月まで大阪・千里丘陵で開催された日本万国博覧会は入場者数5000万人を目論む日本史上最大のイベントだった。日本民族大移動といってもおかしくないスケールの来場者の輸送の要の国鉄は新幹線を中心に列車を増発し、それにともない施設や人員も整備したが悩みは博覧会終了後の鉄道利用客の落ち込みであった。そして万博終了後の10月、ポスト万博キャンペーンとして個人旅行拡大を狙った「ディスカバー・ジャパン」が始まった。 「1970年 ディスカバー・ジャパン」 このキャンペーンの特徴は国鉄の自社企画ではなく、電通のプロデュースによるもので、他の業種との連動、つまりタイアップが計られた。キャンペーン開始の10月からテレビで旅番組の「遠くに行きたい」が国鉄の提供でスタートし、永六輔が全国を一人旅し地元の人との”ふれあい”をした。旅情を誘う永六輔作詞、中村八大作曲の同名のテーマ曲もヒットした。「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーン名には「自分の発見、自分を旅する」という意が込められており最初の副題は「美しい日本と私」で団体旅行から個人旅」行へと誘った。 また国鉄は「ディスカバー・ジャパンのキャンペーン開始と同時に安価・短期間の旅に適したミニ周遊券を発売した。 「1970年 アンアン創刊」 大阪万博を機に”旅”が変わろうとしているときに新しいファション雑誌「an・an アンアン」が創刊された。アンアン以前の雑誌は洋服だけの流行やまたは型紙や縫製の説明がついた"服飾"雑誌だったのにくらべ、アンアンはスタイリングが主体の雑誌だった。フランスの「エル」と提携してつくられたこの雑誌は表紙などのデザインや写真がそえこそファッショナブルな雑誌だった。ライフスタイルをもスタイリングしたアンアンは1972年の国鉄の「ディスカバー・ジャパン」秋から国内旅行の特集が組まれるようになり、女性の旅ブームをおこし、1971年創刊の「non-no ノンノ」の読者をまとめて『アンノン族』と呼んだ。 「アンノン族異論」 「アンノン族」と呼ばれた女性たちを語るとき、”メルヘン”というステレオタイプな言葉で短絡的にくくるのには違和感を感じる。「アンアン」と「ノンノ」は全くの別のレベル、別の方向性の雑誌であるという認識が私にあるからだ。「アンアン」がお洒落上級生なら、「ノンノ」は普通のお洒落さん。「アンアン」がリベラルなら「ノンノ」は保守。フォークロアは「アンアン」だがメルヘンは「アンアン」には似つかわしくない。なのに「アンノン族」と安直にくくってしまったためにその「アンノン族」に観光地の人たちは翻弄されてしまったのではないかと思う。このとこを先に述べて次の項に移る。 「アンノン族と旅ブームの変遷」 「アンアン」の旅特集に触発され女性読者は旅に出た。行き先は”古都”京都、奈良、鎌倉、”小京都”金沢、津和野・萩、や倉敷、飛騨高山、妻籠・馬籠などの古い町並みのあるところ、神戸、長崎、小樽と外国情緒ゆたかなところ、北海道や清里など外国のリゾート地のようなところであった。 最初は一人旅、目的は出会いだった。自分の知らない場所、自分の知らない人、自分の知らない”自分”を求めて。わざわざ相部屋を選んだり、地元の人に話しかけたり、そんな孤高のひとり旅だった。「アンアン」の読者のみ。 やがて女二人旅が主流になっていく。このあたりから観光業が女性の旅行客を招くという意識が生まれて来たのではないか。旅の目的も食べ歩きなどのような楽しみに変わっていった。「アンアン」の読者に「ノンノ」の読者が混じってきたのか。 そしてここからは二つに分かれる。 一つはグループ化。女性の3人以上のグループ。低年齢化にゆえに低料金化。仲間意識を求める旅。ここからは「アンアン」読者はいなくなり、「ノンノ」読者に他のファッション雑誌か「るるぶ」などの旅行雑誌。 もう一つは男女のカップル化。二人の結びつきを求める旅。ペンションがラブホテル化。 旅ブームが進むなか、旅行者は低年齢化し、それを迎え入れる人たちも質が低下して行き、ついには終焉を迎えることになる。それは一口に「アンノン族」とくくってしまったがために旅行者の本質を見極められなかったためである。そしてその悲劇は新興の観光地である清里で起こる。 「清里の観光ブームとファッション」 「アンノン族」と呼ばれる人たちが清里に押し掛けたのは70年代の末あたりからで、私の考えでいくと「アンノン族」と呼んでも「アンアン」の読者はごくわずかで、「ノンノ」の読者もそう多くはないだろう。これはもちろん推論ではあるがファッション性から考えれば私の考えでなければファッションの流れがおかしくなってしまう。つまり"メルヘン"ということばが「アンノン族」のファッションからきているという説明を目にするが、フォークロアから派生した俗にいう”メルヘン”チックな服は「アンアン」ではなく「ノンノ」の世界で70年代半ばまでの流行で、80年代前半にピークを迎えた清里における”メルヘン”なファッションはその当時、アイドルブームのアイドルに憧れた少女たちのファッションではないかと思う。彼女たちが好きだったのはかわいらしい服をきたアイドルとロマンチックな漫画だったのだ。 「”メルヘン”の終焉」 清里を訪れる旅行客を計り間違え、一夜の喜びを提供するため、実体のない建物をつくり、中身のないおみやげを用意した。心からの喜びを味合わなかった旅行客はまたここに戻ることはない。客は去り、ブームは終わった。 その遺構は明るい色はしていても清里に住む人には重く感じているだろう。だが他力本願で切り株の上で待つのではなく、ポール・ラッシュと安池興男の二人の開拓の父が育んだ清里の地を愛して、また育んで欲しいと願う。萌木の村といういい例があるのだから。 参考資料: 「『ディスカバー・ジャパン』の時代ー新しい旅を創造した、市場最大のキャンペーン」森彰秀著(交通新聞社 2007年) 「族の系譜ーユース・サブカルチャーズの戦後史」難波功二著(青弓社 2007年) 「団塊サードウェーブー新しい大人文化が生まれる」博報堂エルダービジネス推進室 編著(弘文堂 2006年) 「東京するめクラブ 地球のはぐれ方」村上春樹、吉本由美、都築響一共著(文芸春秋 2004年) 「後記」 どうしても「旅ブームとアンノン族と清里」というテーマで書きたくて、時間も資料も十分とはいえずレポートにも不慣だが、なんとかかんとか書き上げたというのが本音である。不十分な説明も多々あると思う。提出後も更に推敲して仕上げたい。 # by torubadour | 2010-05-20 03:41
2010年 05月 19日
さきほど大学生になっての初のレポートの前半部分をアップしたので後半部分も続いてアップしちゃいましょう。このブログ見た人はちゃんと前半部分も読んでね。ほんでもって「よくやった」「えらいぞ」と誉めてやってください。お願いだから。
2010年 4月18日 <2A> 清里の森十字路 10時 7分 セミナーハウスを9時45分に出発。県道に出て左折しセミナーハウスの境界線の道を東にあるき別荘地「清里の森」入る。菅野さんより「学校寮地区」に大学の施設が集まっているということと「清里の森」は昭和60年から山梨県が所有している土地を借地権という形態で貸し付け別荘地の維持をはかっているという説明を受けた。確かに道路もしっかりと整備され、別荘の建物も立派なものが多かった。清里の森のホームページによれば県有林約200ヘクタールに約790棟の別荘があり、管理センター、テニスコート(10面)などのスポーツ施設、森の音楽堂や森の工房などの文化施設におみやげなどの売店も備わっている。 参考資料: 清里の森 ホームページ http://www.kiyosatonomori.co.jp/facilities/parkgolf/index.html 2010年 5月 4日取得 <2B> 清里の森管理センター 10時15分 菅野さんの説明を聞きながら清里の森管理センターの入り口の交差点に着く。 近くには別荘だけではなくペンションもある。 歩いている途中気になったのが道路上の建造物。別荘地内の車両のスピード抑制のためならば通常のバンプで十分だと思う。道を左右に明確に分け、左通行の標識をわざわざ設置していることと、設置場所が坂道でしかも道が湾曲していることから察すると、交通量が少ない別荘地ではちゃんと左側通行をまもらないことがあり、坂道でカーブのある道路では正面衝突の危険性が高いため事故予防のための施設ではないだろうかと推察した。 <2C> 企業保養所・ゴミ収集所 10時28分 ここ清里の森には個人の別荘、ペンションだけではなく企業の保養所もある。道ばたに小さな山小屋のような施設がある。小屋の正面にまわると、それはゴミ収集所であった。クマなどの動物の被害を防ぐため扉をつけ、しっかりとした作りになっている。 <2D> サイクリング道 10時52分 美し森山と清里駅前を結ぶ道を横切り林の中に分け入りサイクリング道に出る。ここに来るまで「この場所の冬の積雪の深さを推察せよ」との命題があり、小山さんよりその答えを植生とその観察から導きだすレクチャーをいただいた。 サイクリング道の周辺には笹が覆い茂っていたその笹は「ミヤコザサ」でその背丈は50cmほどである。このササの背丈の高さが雪の積雪に深さとほぼ同じであるという。ミヤコザサは積雪量の年平均が50cm以下の地域に分布する。よってここの積雪量はおおよそ50cmである。スズタケは背丈75cmくらい、東北・北海道などの多雪地帯に分布するチシマザサは1.5mを越え、積雪に耐える柔軟なカンを持ち、どの節からも根を出すことができ積雪量の変化にも対応できるとのことだ。他の方法では ◦針葉樹の枝の張り方ー積雪の位置から下の枝が雪の重みのため下方向を向いている。 ◦木に生えているコケー積雪の位置から下にはコケが生えないのでその位置が積雪の深さになる。 ということを教わった。 参考資料: 「八ケ岳と周辺の高原」ネイチャーネットワーク(2001) <2E> 清泉寮そばの牧草地から八ケ岳を望む 11時13分 サイクリング道からまたカラマツ林を分け入り、小さな川を越えて清泉寮に隣接する牧草地に入る。ここからは八ケ岳が綺麗に見え、その荒々しくも美しい山の姿を見ながら菅野さんに八ケ岳の成り立ちについてレクチャーを受けた。 八ケ岳は日本でも有数の大型複合成層火山で主峰は赤岳(2889m)である。成層火山とは中心火口から噴出した溶岩流や降下堆積物が互層をなす複製火山で緩やかな裾野を持つ円錐形である。菅野さんの説明によれば八ケ岳の活動は約130万年前に始まり標高3400mくらいの大きな火山となったが、24~20万年前(ガイダンス資料では約30万年前)に大崩壊があり山頂部が崩れ落ちた。その崩壊した火山体の一部が山麓に向かって砕けながらなだれ落ちて堆積したのが岩屑流であり清里から韮崎、釜無川と甲府盆地の西側に及ぶ。釜無川が岩屑流を浸食してできた高さ40~150mの断崖が「七里ケ岩」である。また崩れた火山体の一部の溶岩塊が流されて形成された「流れ山」と呼ばれる大小の丘が見られる。 1980年、アメリカ北西部のセントヘレンズ火山が噴火し、大崩壊がおこった。崩壊により岩屑流が発生し多くの被害を出した。円錐形の火山体は山頂部を失い大きな馬蹄型の凹地、いわゆる馬蹄型カルデラがつくられた。しかし、このときの崩壊の規模より八ケ岳のほうがはるかに大きな規模だったとのことである。 また富士山との背比べの伝説(でいだらぼっち)の話もしていただいた。形成された年代が離れているので八ケ岳が3400mの頂を持っていたときはまだ富士山が生まれておらず、八ケ岳が大崩壊のあと今の姿になってからずいぶんあとに富士山が生まれ、育ち、ついには八ケ岳を追い抜いてしまったのだが、昔の人はおおらかで自然の形状をしっかりとみていたのだなあと関心した。 菅野さんの話のあと八ケ岳をスケッチし、そこに昔の八ケ岳を想像して破線で稜線を書き入れてみた。 <2F> 清泉寮 12時00分 牧草地を横切り清泉寮に向かう。清泉寮にてものは試しとソフトクリームを食す。350円。清里では主に寒冷地に適したジャージー種の乳牛が飼われていて、その牛乳は乳脂肪率が5%と高く牛乳やソフトクリームの味もなるほど濃かった。 ここ清泉寮は戦前GHQ将校として二度目の来日をしたポール・ラッシュ氏が創立したKEEP(キープ)協会が設立した施設でキリスト教の教育の中で青少年の健全な育成を促す研修施設が核となっている。ポール・ラッシュ氏の清里における功績はそれにとどまらず、酪農事業の界開拓発展、スポーツの導入普及などなどはかり知れない。まさに清里の父である。 清里の開拓とポール・ラッシュ氏について、いま「清里の父 ポール・ラッシュ伝」を読んでいるところである。またもう一人の清里開拓の父、安池興男氏と小河内ダムのため移住した開拓民についても「日陰の村」石川達三著などを読み深く知っていきたいと思う。時間がなくなってしまい「清里、二人の開拓の父」という命題で別レポートを書くことがでなくて残念である。 <2G> 清里駅前 12時55分 清里寮を後にして解散し、自由行動で清里駅周辺を見ることになった。注意点は清里のメルヘンブームの中心地でさかえたが今は寂れている。日曜日なので平日との違いを意識する。観光客に犬連れの中高年が多いのはアンノン族の再訪か。またみやげものはどんな物でいくらくらいか。などであった。清泉寮から駅前に伸びる道を南下、その道路の下につくられた清里高原有料道路(2005年より無料開放)のトンネルを踏み越し、小梅線の踏切を渡って左折し進むと清里駅前に着く。 最初に目に入った建物が「ONE-HAPPY-PLAZA」。ペンキがはげ老朽化したその建物に人影はなく、中に入るとそこは木の床は落ち、廃墟のようになっていた。この集合店舗は売れ行きがよい店として「ウッディ感覚の店舗で、結婚式をコンセプトとしたファンシー物を扱うショッピングセンター」(北村眞一 1995)と紹介されたこともあるが今はこのような状態である。隣は大きなキノコが入り口になってるまさにメルヘンなファサード。隣はコロニアルな建物だが入り口は和風で居酒屋風。おそらくハンバーグレストランのような形態だったが閉店し次に居酒屋として開業した際に玄関だけ和風に改装したのだろう。続いてお城のような建物は軽食のレストラン。その軒先と向かいには一世を風靡した「MILKPOT」。いずれの店舗も閉店していた。 日曜日なのに閑散としていて地理学専攻のクラスメートを除くとと数人くらいしかいないような寂しさだ。駅前の大きなおみやげ屋の「ぴっころ」に入り、従業員の方にお話を聞いた。 「今日はまだ人出が多いくらいで(明大生を観光客と勘違いして)、平日、土日関係なく人が少なく、曜日感覚がなくなっている。特に今年は悪い」 「ペンションに来る客も、スキーで来る客も少ない。」 「幹線道路が駅前を通らないので車での客もすくない。」 「なにか誘致してきて欲しい。」 と嘆く。たしかに売り場面積が40坪以上あろうかという大きな店舗で日曜日なのに販売員が一人では売り上げもたかが知れているだろう。そうなると気になるのがみやげものの賞味期限だが、メインの乳製品はともかくお菓子類はみなひと月くらいの長さであった。回転率を考えれば致し方ないところで販売員の方も「賞味期限に対しては慎重になっている」と語ってくれた。 清里駅に設置された蒸気機関車C56の隣にある北杜市の観光案内所にも行き観光客の人出について質問すると「電車で来る人は少ない。」とのことであった。どうもみな観光にたずさわる人たちに諦めの気持ちが強いように感じる。なぜこうなってしまったのか。一大ブームを引き起こした清里のメルヘンブームの要因とその後の顛末については後で詳しく考察したい。 電車の時間近づき清里駅に戻るとき、駅前の整備途中のところで大きな看板があり、そこには清里の開拓史の年表が書かれてあった。それを読んでいくと、昭和13年の4月17日に「小河内ダム(奥多摩湖)に沈んだ丹波山村、小菅村の住民が八ケ岳地区に入植」とあり、そのすぐ下の同じく昭和13年のところに、7月24日「日本聖徒アンデレ同胞会の指導者訓練キャンプが完成。後に清泉寮となる。」とあった。陰と陽を感じ取った。これは調べてみないと、という思いが起きた。そして昭和11年、清里開拓の先駆者 安池興男氏、山梨県営八ケ岳開墾事業所長に任命という項目も胸にとどめながら帰りの電車に乗った。 『清里演習を終えて』 二日間の「清里演習」を終えて充実した思いです。はじめての演習で戸惑いもありましたが、梅本教授をはじめ助手のみなさんのおかげで地理学の始めの第一歩を踏み出すことができました。ありがとうございました。 レポート作成のためたくさんの資料に目をやりましたがどの項目も知的好奇心がどんどん湧いてきて逆に困りました。つたないレポートですが一所懸命書きました。このレポートも始めの第一歩にしてこれから自分らしい観点でレポートを書くことできるように精進します。ありがとうございました。 # by torubadour | 2010-05-19 17:39
2010年 05月 19日
いやいやいや、ほんとにごぶさたしておりました。
ちょっと休むと書きたいことがたまって膨大な量になって余計に書けなくなってしまいますねえ。 ってほんとの原因は寝不足です。つうか寝る時間帯の変化です。 今は12時前くらいに寝て3時から4時の間に起きて勉強してます。 なのでブログ書くタイミングがないのよねえ。 てなことでブログ再会。 再会の一撃はこれで。 大学生になっての初レポート。 恥ずかしいけどご覧あれ〜。 「2010年度新入生地理学実習ガイダンス」レポート 提出日 2010年 5月 6日 2010年 4月17日(土)・18日(日)に地理学専攻の新入生は梅本教授と6人の助手、TAの方々の先導のもと「2010年度新入生地理学実習ガイダンス」を八ケ岳山麓の長野県南牧村の野辺山高原と隣接する山梨県北杜市高根町の清里高原で受講した。一日目の17日は前日からの雪や霙に強風という悪天候が朝方まで続き小淵沢に向かう新宿発の特急あづさが小淵沢~小諸間を走る小梅線における倒木により2時間以上遅れるというアクシデントがあり、日本一標高の高いところを走る鉄道の環境の厳しさを身をもって知ることから演習は始まった。 2010年 4月17日 <1A> 野辺山駅前 13時41分 野辺山駅はJR小梅線(小諸~小淵沢間31駅)の駅の一つでJRの駅の中で、海抜1345,67mと最も標高の高いところにある。 鉄道が通る以前の交通は佐久往還(または佐久甲州街道)であり甲州街道の韮崎宿から中山道の岩村田宿に至る道で、甲州方面からは善光寺参り、佐久方面からは冨士講や伊勢講の旅人が行き交う高原の道であり、茶や塩などの食料から木材まで物資輸送の重要な道であった。 昭和10年の全通時は駅前に運送店が一軒あるだけで駅周辺は閑散としており馬や鹿が走り回る原野だった。そのころ軽井沢より涼しいということで野辺山を別荘として売りだそうという動きがあったが南牧村一帯は農耕馬の産地でたくさん牧場があり馬の数が人の数より多くその糞にたかる蝿が原因で別荘どころか観光もままならない状況だった。そして標高1300メートルの野辺山高原ではその標高の高さを活かしてハクサイなどの高原野菜がはじまり、戦後開拓民が入り苦難の末、キャベツ、レタスの栽培が本格化した。そして機械化・大型化する近代農業に対応するためトラクターの導入もすすめ昭和40年にはハクサイ、キャベツが10年前の6倍、レタスは26倍の収穫をあげた。 地図に目をやると現在の野辺山駅周辺には喜峰、増栄、豊ノ原など開墾時につけたと思われる豊作を願うかのような地名が見受けられる。駅前には収穫された野菜を出荷まで保管する巨大な予冷庫がありその農業の規模の大きさを伺い知ることができる。 参考文献: 「高原のポニー 佐久鉄道と小梅線」中村勝実著 櫟(いちい)1985年 「日本の街道ハンドブック」稲垣史生監修 三省堂 1993年 <1B> 長野八ヶ岳農業組合 13時47分 野辺山駅の前の道をへだててすぐの場所にある長野八ヶ岳農業共同組合に行く。なんといっても前述した巨大な予冷庫に圧倒される。予冷という言葉は初めて聞く言葉で、その字から野菜を冷やして保存することは想像出来るが「冷蔵」ではなくなぜ「予冷」という言葉を使うのか興味を持ち調べてみた。三省堂大辞林によれば「野菜や果物の鮮度を保つため、出荷や貯蔵に先立ち摂氏三~五度にまで冷却すること」とある。さらに詳しく調べるため長野八ヶ岳農協のホームページを見てみた。 長野八ヶ岳農業協同組合(JA長野八ヶ岳)のホームページの「事業のご案内」のなかの「生産販売指導事業ー品質保持流通」に予冷について書かれてある。以下その内容を要約する。「JA長野八ヶ岳から出荷される高原野菜は、真空予冷施設を利用し野菜の鮮度を保ちながら全国各地に送られる。生産量が増えたときは一時的に立体保冷庫で保管する。」「真空にする理由は、真空状態=気圧0にすることにより水の沸点を0度近くまで下げ水が気化するときの『蒸発潜熱』を利用し、野菜の水分を目減りなど影響のない2%ほど蒸発させ野菜の温度を下げ冷却させる。なお、通常の通風冷却では冷たい風が当たった部分しか冷えないが真空予冷の場合は野菜の中心まで冷却出来る。」つまり野菜を取れたての新鮮な状態で保管出来るということだ。 しかしこれだけの設備投資が出来るのはなぜだろうと調べると立花隆著「農協」(1980年)に『野菜王国・長野経済連の出荷調整を支える青果物情報オンラインシステムと低温流通システム』という項目を見つけた。立花氏の調査によれば ◦高原野菜は米にくらべ同じ面積で所得が2~4倍と高い。 ◦キャベツ・ハクサイ・レタスなどの高原野菜は生長が早く、年3作が可能。 ◦しかも高地栽培なので他の産地の端境期に生産することができ高値で取引される。 ◦さらに標高の違いによる温度差やビニールハウスやトンネル栽培などを組み合わせると他の産地では冬季が中心のレタスを4月から11月まで連続出荷が可能。 とあり、次に流通に関して ◦野菜は鮮度が命で農地は消費地に近いほど有利。長野は東京、名古屋、大阪という三大消費地に卸せる位置にある。その利点を活かし経済連がコンピュータによる情報収集により価格のよい市場に出荷している。また生産調整も計画的に行われている。 ◦昭和41年(1966年)より長野県は科学技術庁の実験事業として洗馬農協(長野県塩尻市)で真空冷却装置による予冷流通実験を開始。昭和47年(1972年)より本格的に導入。各地に予冷装置をつくり畑で収穫して10分以内で(約5キロの距離)で野菜を冷却できる。 ◦工場装置は一式で2~3億円巨額だかレタス一個あたりのコストは2円30銭程度(「農協」発行当時)で付加価値のほうが何倍も大きく、このシステムによって長野の野菜の流通網は一挙に西に広がり、鹿児島まで届くようになった。 とある。 このような調べから雑穀しかとれないような荒れ地を耕し適地適材の作物を見いだして育ていった開拓民たちの歴史、そうやって苦労して作った野菜を付加価値の高い商品として市場に送りだす農協と経済連のはたらきを知った。しかし、この本が書かれたのがすでに30年も前のことであり、いま野菜は無農薬、有機農法などが注目されもてはやされているなかで農協、経済連の結びつきが非常に強い長野県の農家がいまどんな未来を描いて農業をしているのか知りたくなった。 参考文献 長野八ヶ岳農業協同組合(JA長野八ヶ岳)ホームページ http://www.ja-yatugatake.iijan.or.jp/index.html データ取得日 2010年4月27日 「農協」立花隆著 朝日新聞社(1980年) <1C> 凍上 14時10分 農協から野辺山駅前の道に戻り南に下る。道路のアスファルトに無数に亀裂が入り段差やくぼみが生じている。これは凍上(とうじょう)といい、地中の水分が凍結する際の膨張で局部的に土が持ち上げられる現象。冬期間連続して地中温度が0℃以下になる深さまでの地層中に、通水生の悪い層があるような場合に起こる。凍上の規模は地質と寒冷度によるが、積雪がある程度以上あればその保温効果によって凍上は発生しない。(「気象の辞典」平凡社より) 野辺山高原は1350メートルの高地にあり気温の低減率により同じ緯度(例えば東京)の平地より約7℃気温が低く、冬季の最低気温の平均は12月 - 8℃、1月 - 11℃、2月 - 11℃、3月 - 6℃といづれの月もマイナスである。最低気温が - 20℃越すこともある冷寒地である。また野辺山高原のある八ケ岳山麓は日本海から遠く位置し、冬のモンスーンの時期は立ちはだかる飛騨山脈のおかげで八ケ岳まで雪が及ぶことが少ない。特に南東麓では雪はほとんど降らない。また雪が降っても道路の除雪することにより雪のない状態がつくられている。くわえて地質は保水率が74%と非常に高い火山灰質粘性土である。地表面に出来る霜柱の発生要因の一つが土壌の含水量が30%以上であることからもこの一帯の地質の含水量が非常に高いことがわかる。このような条件によってこの八ケ岳南東麓に凍上が多く発生すると思われる。 ”しみ上がり”とも呼ばれる凍上による被害は住宅、道路、線路などであるが、特に鉄道線路への影響は脱線、転覆など大きな被害をもたらす。前出の「高原のポニー 佐久鉄道と小梅線」に凍上の現象と対策についてこのような記述がある。やや長いが要約しながら引用する。「凍上は鉄道の場合、枕木をレールとともに持ち上げるので全線にわたって高低ができる。なかでもひどいのが野辺山、清里、信濃川上など標高1000メートル以上の区間。寒いだけではなく、八ケ岳の火山灰地という土壌の悪条件もこれに加わって一層深刻にしている。戦後、鉄道技術研究所がこの地点の凍上調査をしたが、最高1.5メートルを記録したことがあったという。凍上は12月下旬になるとはじまる。最盛期の一月下旬になると連日のように1メートル前後に達する。三月中旬になると地熱も上がり凍結もゆるみ始めるが、むしろそれからが厳重警戒の期間で大気の気温が急に上昇したり、また春を呼ぶ”春雨”で地下の凍結がゆるむと逆に”しみ下がり”で第二の凹凸をうむことになりかねない。春先に野辺山原でよく徐行運転するのはこの”しみ下がり”を警戒するためだ。」「凍上が起こると保線区員は凍上箇所の前後に”はさみ木”を入れて凹凸を取り除く。なかにはレールの片側だけ凍上する場合もありこれを『不整凍上』という。」「凍上を防ぐ対策としては、小梅線にSLが走っていたころは大量に出る石炭がら(その後は軽石ブロックくず)を夏の間ににまいたり砂をまいて、路盤の入れ替え作業や道床の交換をして路盤や道床内の水分を少しでも排除する。最近ではスタイルホームという断熱材を路盤と道床の間に入れる方法が効果をあげている。」とある。1985年発刊の本なので記述が古いが、それだけ長きに渡ってこのような寒冷地における災害に苦しみ闘ってきたことを痛切に感じる。 参考資料: 「気象の辞典」平凡社 「高原のポニー 佐久鉄道と小梅線」中村勝実著 櫟(昭和60年、1985年) 「石灰を混合した火山灰質粘性土の凍上量に関する検討 ー新たに開発した簡易凍上試験機を用いてー」長岡工業高校専門学校 西脇一樹以下5名 <1D> ペンション・ホルンの看板 14時18分 引き続き同じ道を南下すると三叉路の右手のペンション・ホルンの看板がある。引率してくださった松本さんの説明によると、昭和40年代、野辺山の酪農は輸入品に押され生産過剰気味となり観光業に転換したところがあるという。調べてみたがまだそういった資料が見つかっていないので詳しく述べることができない。ただ現在のペンション・ホルンは広い敷地を持ち、庭の草花の手入れもゆきとどき、シックな山荘の佇まいと手作りの料理が評判の人気のペンションで、後で述べる清里の駅前のように浮かれたところも場違いなところもない。だからこそ残れたのか。再度、調べてみたい。 <1E> 国立天文台 野辺山 14時24分 ペンション・ホルンの看板を過ぎ左手、東方向見ると白い大きな電波望遠鏡が見える。国立天文台 野辺山である。あわせて野辺山太陽電波観測所、野辺山宇宙電波観測所がおかれている。野辺山は標高1350メートルで水蒸気量が少なく、まわりを山に囲まれた平坦な地形で、寒冷地でありながら雪が少ないことなどから電波の観測に最適な場所として選ばれ、45メートルの電波望遠鏡を有する。1961年、設置調査がはじまり66年に太陽電波観測所の設置を野辺山に決定し69年に10月に開所した。81年に宇宙電波観測所本館完成、45m電波望遠鏡試験観測開始。82年、3月に宇宙電波観測所開所、45m電波望遠鏡の利用も開始される。88年、「国立天文台」となる。(国立天文台 野辺山 ホームページより) 余談ではあるがまたもや前出の「高原のポニー 佐久鉄道と小梅線」に「グライダー訓練所」というものが野辺山にあったという記述があった。航空戦闘員養成のため野辺山の丸山をグライダー練習場に選び、昭和17年ぼ夏から全国から学生が続々と集まった。地図に目をやると標高1342mほどの宇宙電波観測所の北に丸山という標高1364.7mの小高い丘があり、その標高差と広い平原を利用して初級から上級まで訓練ができる理想の場所だった。昭和18年には寒冷地での戦闘訓練をする演習地もつくられ多くの軍人が野辺山に集められた。間もなく常設の部隊が駐屯した。私事ではあるが私の第二の故郷、姫路の砲兵隊も本土決戦部隊として実弾演習を行った。 また昭和20年5月には三重海軍航空隊からこのグライダー練習場に1196名の予科練習生が派遣されロケット戦闘機の搭乗員となるためグライダーによる訓練を8月15日の終戦まで続けた。 参考資料: 「国立天文台 野辺山 ホームページ」 「高原のポニー 佐久鉄道と小梅線」中村勝実 櫟(昭和60年、1985年) 「終戦目前、厳しい訓練ー三重海軍航空隊 野辺山派遣隊」歴史の情報蔵ー続発見!三重県の歴史 第27話 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=386 <1E> 農村文化情報交流館 矢出川沿いの農村文化情報交流館にてトイレ休憩。訪れる人たちを迎えるマスコットの牛がユーモラスで愛くるしい。よく見れば干し草をビニールで巻いたものを利用している。この土地、ここの産業に対する強い愛着を感じる。また、情報交流館の敷地内にも前述の三重航空隊の記念碑がある。 <1F> 三軒屋跡石碑 さらに南下し矢出川から300mほど行ったところに「三軒屋跡」という石碑があり、それにはこう記してある。 「歴史 慶長年間徳川幕府は行旅人が雨雪を避難できるように川上村西樋沢の一部を板橋区に移住させ、その後貞亨三年に、板橋区より二戸平沢区から一戸、計三戸の茶屋を移住させ同じ行旅人の救護にあたらせた。一名矢出原新田とも三軒屋とも言う。一軒に対して二人扶持を支給し行旅人を救わせていたが明治六年までつづけこれを配しされた。(一人扶持は一石一斗八升)幕府は板橋区に対しても扶持米を給し後、附近の開墾地まで無税とする恩恵を与えた。この場所がその屋敷跡であり、当時使用した古井戸が三つある。平成元年四月 南牧村百周年記念」 南牧村ホームページにはこの石碑の写真とともに板橋村絵図(天保九年)が掲載されており当時の様子が伺える。ホームページの説明文を要約して記す。 「現在の野辺山地区は当時板橋村に属し、寒気厳しく早霜のため作物が実らず開墾にに入った農民もやめ、その跡地は荒れ果てた。冬は往来の旅人が吹雪で凍死するほどの場所だった。」以下、石碑と同じく茶屋三軒を移住させた説明が続く。 このことによりいままで歩いて来た道が佐久往還と知る。板橋村絵図を見ると佐久往還は獅子岩方向に伸びているように見える。現在の道はそのまま野辺山スキー場<1G>に入って行く。(実際はゲートが閉鎖されているので中には入れない。つまりT字路のようになっている。)1984年開業の野辺山スキー場は近年スピードレース用の練習ができるレーシングキャンプ野辺山として営業していたが2009年は営業せず、去年の12月、ついに閉鎖が決まった。所有所は南牧村でリフトの撤去に5500万円の予算を計上した。(信濃毎日新聞)村の所有ということを考えるとスキー場の建設の際、道が付け替えられた可能性があると思う。 参考資料: 長野県南牧村ホームページ 「南牧村の歴史」2010年5月2日取得 http://www.minamimakimura.jp/info-rekisi.htm 「お山に行こう!」2010年3月10日 http://lcymeeke.blog90.fc2.com/blog-entry-853.html <1H> 露頭 14時55分 三軒屋跡から野辺山スキー場跡のゲート前、飯盛山(めしもりやま)ハイキングコースの入り口を右折すると左手に小規模の崖崩れがあり地層を見ることができる。このように露頭とは岩石・地層などが自然的・人為的に地表に露出している部分のことを言う。(三省堂「大辞林」) 露頭の観察に使う「ねじり鎌」や「折れ尺」の説明を受け、露頭の観察をする。積雪のため近くに寄っての観察はできず遠くから関東ローム層という一万年以上前に富士山の噴火噴火による火山灰が積もった地層でその赤茶色している土の層を確認しスケッチをするにとどまった。 <1I> 高原野菜畑 15時15分 道を北西方向に進む。右手に平原が広がる。本来ならば高原野菜の畑を見ることができるのだろうがあいにくの積雪のため一面には白い絨毯がしきつめられたままだった。 <1J> 鉄道最高地点 15時25分 さらに北西に歩みを進め、小梅線の踏切の手前に鉄道最高地点がありそれを示す大きな石碑がある。その石碑にも記されているようにここは標高1375mである。 ここは分水嶺となっており最高地点より小淵沢川に降った雨は富士川に流れ込み、太平洋に注ぎ込む。小諸側に降った雨は千曲川に流れ込み、信濃川となり日本海に注いでいる。 またここでフォッサマグナ(Fossa Magna)の説明を受ける。フォッサマグナとはラテン語で大きな溝の意で西縁は糸魚川ー静岡構造線、東縁は柏崎ー銚子線で八ケ岳はその中央に位置する。ナウマン象の名前の由来となったドイツの地学者ナウマン博士がこの地で赤石山脈(南アルプス)を見て着想した。1875年11月、旧佐久往還の平沢峠を訪れたナウマン博士は切り立つ山脈がそのまま低地に落ち込む景観をみてここが島弧を完全に横断して走る溝のような土地であり、その真ん中から多数の火山を生み出しているとの推論した。 なんと壮大な着想をわずか来日3ヶ月、21歳での若さでするとは驚きだった。八ケ岳は日本のへそのような存在なのだと感じた。 <1K> 植生 16時10分 鉄道最高地点から踏切を渡らず左に折れ蛇行する国道141号線旧道を南下する。鉄道最高地点より400~500mあるいた地点で植生について説明を受ける。植生とは「ある場所に生息している植物の集団。荒原・草原・森林などはその例。植被。」(大辞林 三省堂) ◦標高0~1000mー丘陵地帯 コナラ(落葉樹) ◦標高1000~1500mー山地帯 ミズナラ、ブナ(落葉樹) ◦標高1500~2500mー亜高山帯 コメツガ、オオシラビソ(針葉樹)カラマツ(落葉樹) ◦標高2500m~ ーハイマツ帯 ハイマツ 緯度により高度帯が変わり、フォッサマグナ以西の西日本の山地帯以下などでは照葉樹林となる。 亜高山帯における針葉樹は大まかにはカラマツ属のみが落葉し、他の種類は常緑樹である。日本の自然植生のカラマツは中部地方を中心とした亜高山地帯に限り分布している。北海道のカラマツ林はすべて植林されたものである。 土地が痩せ、乾燥気味で日当りが良い寒冷地がカラマツの生育条件で、八ケ岳や富士山などの火山にはカラマツが多い。生長が早いのも特徴で、大きな崩壊地の縁に先駆けてカラマツが細長い林をつくることも多い。(「八ケ岳と周辺の高原」ネイチャーネットワーク 2001年) <1L> 国界橋 16時48分 引き続き国道141号線旧道を歩くと大門川に架かる国界橋に着いた。ここはその名のとおり長野県と山梨県の県境である。地図を見ると赤岳から伸びる境界尾根から大門川の流れが県境となっておりそれは下流の平沢地区を過ぎるまで続いている。 <1M> 清里セミナーハウス 17時15分 旧道から国道141号線に出て200mほど歩き「学校寮入口」という交差点を右折し山梨県道615号美し森清里線を800mほど北に歩いたところにある清里セミナーハウスに到着。 清里セミナーハウスのある一帯は「学校寮地区」と呼ばれ1979年(昭和34年)から事業開始され、東京近辺の大学や市町村などの40区画が貸し付けられている。 明治大学の他は青山学院大学、武蔵野大学、東京電機大学、山梨大学、明星大学、文教大学など、市町村では立川市、日野市、府中市、調布市、目黒区などの施設がある。 夕食のあとセミナーがありTAの菅野さんから野辺山の地理、開発史、現在の酪農、農業についてと、フィールドワークの方法と注意点のレクチャーを受ける。興味深かったのは高原野菜の流通の話で、東京や名古屋の市場の価格の情報を集めより高い市場に野菜を運べるよう待機しているトラックに連絡・指示するということだった。野辺山は千曲川、富士川の分水嶺だけではなく流通、経済の分水嶺でもあるのだと思った。 # by torubadour | 2010-05-19 17:15
2010年 05月 05日
GW中の課題である「清里演習レポート」は昨日の夕方、12ページ、約18000字の大作になったが、記述に間違いが無いかどうか火照った頭を冷やしてから推敲しようと完成手前で寸止めし、次に地誌学概論からの課題である「災害」をテーマにしてのレポートにかかった。タイトルは「津波ー記憶と防災」としてやっとこささきほど脱稿した。5ページで約7000字、写真を加えると8ページで一授業の課題レポートしてはまあまあのものになったと思います。津波のレポートを書いている間に宿題と提出日の確認をやったら来週までに6つありました。ひえ〜。今週の土曜は栃木市を巡検するスケジュールもはいっているというのに。死んじまうよ〜。とシャワーをあびて気分転換。バスルームからお隣さんの鯉のぼりが見えたので写真撮ってきました。さあて「清里演習レポートー特別編」を書こうとしたらおふくろから「おめでとう」の電話。はい、今日で53歳です。あは。ま、このぶんだとレポート書きながら誕生日を迎え、レポート書きながらそれが終わりそうです。うん、たぶん寝ないでやると思う。がんばれ。
写真は、お隣の鯉のぼり。ウチの小径とデッキと大きな木、ここも天国だな。 三枚目の写真の石はハワイ島のワイメアのB&Bで見て同じものを買ったの。 かく生きたいなあ、と思って小径の入り口に置いてます。でも全然近づけません。 ![]() ![]() ![]() # by torubadour | 2010-05-05 18:12
2010年 05月 04日
今日も朝からレポート書いてます。
A4で1500文字くらいのをいまで10枚、15000文字くらい。原稿用紙で40枚弱。これでたぶん半分か3分の2くらいかな。この量って大学の卒論並みじゃないの? ふい〜疲れたよ。 ってことで石ころコロコロさがしに今日も海に行ったけど大不作。昨日の波が持ってっちゃったかなあ。 石ころ求めて潮が引いて歩いて行ける稲村ケ崎の崖下まで行ってきました。 ここには大きな丸い穴と長方形の穴がありまして第二次世界大戦のとき本土決戦のための砲台の跡とか。丸い穴はもう一つあって看板で遮られてる穴に通じているはず。 今日は子供連れが多く、この穴にも親子が入っとりました。 そうそうこの崖の上から飛び込み自殺する人がたまにいます。 あんまり高そうじゃないいんだけど、亡くなってます。 やはり海は生と死の境界線なのでしょうか。 ようし、がんばるぞい。 あ、そうそう、最後の写真は極楽寺川。 去年の10月の台風のとき海の水はあがってきてこのあたりの植物は全滅して、海からのいやな贈り物が散乱してヒドい状態だった。雑草が多いけどこうやって復活してくれてうれしい。蝶々も飛んでたよ。 撮った写真をみると垣の花ヒージャーみたいで、これも天国のひとつのように思える。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() # by torubadour | 2010-05-04 15:26
2010年 05月 03日
今日は朝8時に海に行ったら潮が引いてなくて石ころコロコロは不作でした。
でも代わりにいろんなモノが見れました。 流れ着いた風呂桶?貝みたいなのがいっぱい。 浮子 ハリセンボン? 漁の網 ステンレスの棒。1.5メートルくらいあった。 サーファーとしらす漁。たぶん。 七里の浜の標高。以外とあるのね。 地図は6メートルの標高を表したもの。 あれ、稲村ガ崎の公園が避難場所なんだ。不思議。 津波のときに海に向かって逃げるのか? ま、稲村ガ崎は標高6.1メートルだから大丈夫って判断でしょうが 気分的にはいやだね。 おまけに国民的スタアのお家。海側から。 塀が高くて海が見えないだろうに。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() # by torubadour | 2010-05-03 12:24
2010年 05月 02日
今年初の短パンで海まで石ころ拾いに行ってきた。
今日は極楽寺川の河口あたりにたくさんあった。 30分ほどで終了。ああ、いい天気。 家に戻って並べてみた。かわいい。 シャワー浴びさせ砂を落とした。 明日の朝も石ころコロコロ集めに行こう。 さあて、レポート始めるかあ。 ![]() ![]() ![]() ![]() # by torubadour | 2010-05-02 13:17
2010年 05月 02日
なんてこった。もう何日も更新してなかった。
ココ最近疲れがたまってひとがんばりできませんでしたね。 そんななか東京暮らしの準備をしております。 前回タイトルが「食って行け」だったのでその街のラーメン屋三店舗と行列のできるたいやき屋。 で、黄金週間の始まりの29日は授業があって、30日も授業、1日は勉強部屋に荷物搬入、電気、ガス、CATV、インターネットで一日丸つぶれ。2日の今日から4日間はとにかくレポートを4つやらなければなりません。ハードです。疲れてます。 でも今から稲村の浜辺で石ころ拾ってきます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() # by torubadour | 2010-05-02 10:27
2010年 04月 26日
あちゃあ、また更新し忘れました。しかも二日続けて。いかんなあ、ここ一週間で4日更新してない。
昨日は長男のチェロの発表会でした。週一回のレッスンの日にしかチェロに触ってないわりにはまあまあかな。ん〜、いや、たいしたものかな。 ボクはといえばGW中にやらなければいけないレポートの資料の集めとその整理を二日がかりでやってました。でもまだその資料をちゃんと読めてない。どうする!? ![]() ![]() ![]() # by torubadour | 2010-04-26 10:21
2010年 04月 23日
なかなかハードな一日であった。
ちょっと出遅れて朝7時に家を出た。 ギリギリかちょい遅刻かと思ったがナイスな道のチョイスでなんと1時間10分で会社に到着。 そして15分前に教室に到着。 そしたら15分遅れて先生がやってきてこれから授業の開始は9時10分と言った。 先生たちも朝は会議で大変そうである。 睡眠不足でうとうとしかけたがテキストの「ADVENTURE OF ENGLISH/英語の冒険」DVD版を見て目が覚めた。古代英語、ゲルマンの影響、英語そのものよりそんな話が面白い。やる気がでてきた。 英語のあとは地理学の授業が4 つ。 お昼ご飯は昼の混雑を避け空いている4時限目に取り、余った時間は図書館探訪。自習はここね。 雨なのでお昼は極近の「神戸ラーメン」でつけ麺しょうゆ味。薄い、ぬるい。 いやあ、しかし一日5つの授業は疲れれます。 これで課題が本格的になったら、ほんと寝る時間はないわ。 すでに課題がいくつか出ててGWはそれで全部つぶれると思います。 ふらふらの運転で帰ってごはん食べたら寝てしまったようで。 でも5時には起きてしまうのでこれを利用して課題がんばります。 授業の写真。 ノートとるのが間に合わないので合わせて写真も撮る。 地理学は学ぶ範囲が広くたくさんの参考書がいる。 昨日もたくさん本を頼んだ。 ![]() ![]() ![]() # by torubadour | 2010-04-23 05:53
2010年 04月 21日
今日も遅くまで会社です。
ほら、四月ですから。あさって給料日ですから。ね。 そんな相談を受けながらせっせと明日の課題の色ぬりを。 新潟市の水田をグリーンに塗るというもの。 つごう5時間くらいかかってさきほど完成。 今日は図書課程の授業で法学部の二年生と仲良くなりランチコンパにお誘い。 今日は独文一年生と日文二年生の言語マニアの出会いのためでしたが4人で楽しくランチできました。 さあ、もういい加減帰ろう。 明日は9時から英語だ。 加えて明日は地理学専攻必修デー! 自然地理学概論、地誌学概論、地理学基礎演習、人文地理学概論だあ。 ![]() # by torubadour | 2010-04-21 23:39
2010年 04月 21日
忙しくて昨日のブログアップを忘れた。
ってiPhoneの写真を取り込んだら昨日行ったラーメン屋の写真が保存されてなくて清里演習の学友たちのワンショットと峠の釜飯の写真があった。ので載せる。 昨日は朝の9時からスペイン語、外に出て契約業務、戻る前に「盛華」で味噌ラーメン大盛り。明大前は学生が多いから大盛り無料が多い。量も多い。 西洋史概論、芸術学、民俗学、そして民俗学のサブゼミに出席したあと会社へ。すでに夜八時。 んでもって専務クンと仕事の話を二時間少々。家に帰って晩ご飯食べたらいつのまにか寝ていた。 ま、四時起きだったからね。 ということで今日も四時起き。 清里演習のレポートのための資料を探し十数冊注文。 これでGWも潰れること決定。 ![]() ![]() ![]() # by torubadour | 2010-04-21 20:56
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