2011年 07月 28日
幕末明治期における神仏分離と廃仏毀釈 ー鎌倉・鶴岡八幡宮を例にとってー(前) |
写真のせれるかなあ。あ、文字数多いので分割だわ。
幕末明治期における神仏分離と廃仏毀釈
ー鎌倉・鶴岡八幡宮を例にとってー
はじめに
神仏習合や廃仏毀釈についての多少の知識は持ち合わせてはいたが、先日の授業で鎌倉の鶴岡八幡宮における廃仏毀釈が、その代表例にもなるような大きなものだったことを知り驚いた。神仏分離、廃仏毀釈とはなんだったのか、また鶴岡八幡宮においてどのような神仏分離、廃仏毀釈がおこなわれたのか、強く興味を持った。私は日本文化史Aの期末レポートして、幕末明治期における神仏分離と廃仏毀釈と、鎌倉・鶴岡八幡宮での例をテーマに選び、神仏分離から廃仏毀釈へと展開した流れとその実際を調べてみたい。
神仏分離と廃仏毀釈
慶応三年十二月九日(1868年1月3日)王政復古の大号令において「諸事神武創業ノ始ニ基キ」と神武天皇による国家の創業に明治維新の理念を求めるべきとの国学者玉松操の主張が入り、慶応四年三月十三日(1868年)の太政官布告によって、「祭政一致」と神祇官再興と全国の神社・神職の神祇官付属が定められた。そして同年三月十七日の神祇官事務局達では、「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候」と神社において別当・社僧などと称して神勤している僧職者の復飾、つまり還俗が命じられ、同年四月四日には別当・社僧は還俗の上、神主・社人などと改称して神勤し、それに不得心の者は立ち退くよう命じられた【太政官布告第二八〇号】。
このようにして「祭礼一致」により神権的天皇制を確立するための神仏分離政策であったが、慶応四年三月二十八日、礼拝対象についての神仏分離が定められた【太政官布告第一六九号】。
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ称候神社不少候。何レモ其神社之由緒委細ニ書付、草草可申出候事。
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事。
附、本地抔ト唱ヘ仏像社前ニ掛、或ハ鰐口・梵鐘・仏具等之類差置候分ハ、草草取除可申事。
一、古くから某権現・牛頭天王などと呼ばれている神社、あるいは仏教的用語を神号につけている神社は少なくない。いずれもその神社の由緒を詳細に書き付け早速申し出るように。
一、仏像を神体としている神社は、今後神体をとりかえるようにすること。
附、本地などと唱えて仏像を神社の前に掛けたり、仏教の用具である鰐口・梵鐘を置いているところは早速取り除くべきこと。
慶応四年三月十七日の「神祇事務局ヨリ諸社ヘ達」では仏教寺院から神主の身分を独立させることがこの時の主な目的であったが、この同年三月二十八日の「神祇官事務局達」では神号・神体から仏教色を一掃することが目的であった。つまり,何々権現・牛頭天王などといった神仏混淆的な神号を一掃し、神号の変更などをして改めて神号を布下した。また、仏像を神体にするという例が「神仏習合」の習わしから多くあり、そのような仏教的色彩をもつものすべてを境内から取り除くようにとの通達で、仏具である鰐口は鈴に取って変えられたりした。
この布告をきっかけに「廃仏毀釈」という仏教色を強引に排除する破壊的行為が日本各地で起きた。境内諸堂にある仏像・仏具・経巻などの什物や堂舎がとり除かれ、焼かれたり壊されたり、捨て値同然で売り払われたりした。
慶応四年(1868)四月十日、神仏分離令が廃仏毀釈運動に発展していくことに対する警告の「太政官布達」が出された。
諸国大小之神社中、仏像ヲ以テ神体ト致シ、又ハ本地抔ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或イハ鰐口、梵鐘、仏具等差置候分ハ、早早取除相改可申旨、過日被仰出候、然ル処、旧来、社人僧侶不相善、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共我ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ実ハ私憤ヲ斉シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨ヲ生シ候而巳ナラス、紛擾ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜ヲ考ヘ、穏ニ取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノ道ヲ可失、益国家之御用相立候様、精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具取除候分タリトモ、一々取計向伺出、御指図可受候、若以来心得違致シ、粗暴ノ振舞等有之ハ、屹度曲事可被仰出候事、但 勅祭之神社、御震翰、勅額等有之向ハ、伺出候上、御沙汰可有之、其余ノ社ハ、裁判所、鎮台、領主、地頭等ヘ、委細可申出事、
(略)古くから社人と僧侶は仲がよくなく氷と炭のような間柄であったが、このところ社人たちが急に権威を得て、表向きには新政府の意向であると称して、その実私憤をはらすようなこと起きているというが、それは御政道の妨げになるだけではなく、必ずもめごとを引き起こすことになる。(略)
このような通達が出たされたということは、神官となった人たちを中心とした激しい排仏運動が行われていたことがうかがえる。神仏分離は直ちに廃仏を意味するわけではなく、神仏習合の寺社から仏教色を取り除く神仏判然を目的としていた。江戸時代において徳川幕府の宗教政策による寺請制度・檀家制度、本末制度によって仏教寺院が優勢であり、神仏集合における神社の社人たちは低い地位に甘んじていた。その私憤がこのような神仏分離令を機に噴き出したのであろう。だが廃仏毀釈の運動はそういった社人たちのみで行われたのではなく、国学者の台頭、藩主・藩令の意向、宗教制度のなかの仏教に対しての民衆の不満などがその原動力となった。また「御一新」という時代の大きな転換期に、新政府は「王政復古」の意義を正当化するため天皇を現人神にまつりあげ、伊勢神宮を頂点とした新しい宗教支配政策を打ち出し、民衆は「一新」に「世直し」や「世均し」を共鳴させ「一揆」や「打ちこわし」と同じような感覚に陥ったのかもしれない(井上清『日本の歴史 中』によれば、新政府による幕藩体制の廃止、天皇制国家の建設の諸改革をひっくるめて、当時の人は「御一新」とも「王政維新」ともいった。後世これを、当時の年号とむすびつけて「明治維新」という、とある)。
もう少し、神仏分離に関する通達を見てみよう。前述したように、慶応四年閏四月四日の「太政官達」で、別当・社僧還俗の上は、神主・社人と称すべきことと定められた【太政官布告第二八〇号】。
今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗ノ上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、
この度の大小の神社において神仏混淆のことは禁止になったので、別当・社僧であった人たちは、還俗のうえ、神主・社人などの称号に変えて、神道を以て勤めるようにしなさい。もしさしかえがあったり、仏教信仰のため還俗に納得できない者は神道の務めを止めて、立ち去ること。
また慶応四年閏四月十九日の「神祇事務局達」では、神職にある者はその家族に至まで神葬祭に改めるべきと定められた【神祇事務局第三三〇号】。
神祇事務局ヨリ諸国神職ヘ達
一、神職之者ハ、家内ニ至迄、以後神葬相改可申事、
一、今度別当社僧還俗之上者、神職ニ立交候節モ、神勤順席等、先是迄之通相心得可申事、
一、神職にある者は、家内にいたるまで、以後神葬に改めるべきこと。
一、(略)
江戸時代は、葬祭は仏式によって執り行われていた。神主・社人も例外ではなく、葬祭は仏式で墓も寺にあったのである。これはキリシタン禁制に端を発した「寺請制度」が「宗門人別改帳」を生み、「檀家制度」に発展し、寺院と檀家の関係が固定され、寺は葬祭寺院としての性格を強めていったからである。また檀家はこの制度により経済的圧迫を受け、葬式や法事を中心とした寺院の僧侶は教義を忘れ堕落していった。このようなことが「神仏分離」や「廃仏毀釈」の大きな要因になっていると考えられる。
神葬祭については明治十五年に、神官は国家の宗祀たる神社に専念する故をもって、葬儀に関与することが禁じられるが、府県社以下の神官は当分従前のとおりとされたので昭和二十年の敗戦まで続いていたようである。参考に書いておくが、『描かれた幕末明治 イラストレイテッド・ロンドン・ニュース 日本通信1853ー1902』に、明治十一年に暗殺された内務卿大久保利通の神葬祭による国葬の様子が伝えられている。要約すると、30人もの神官がゆるやかな白い長い上衣を着て、大久保の遺骸を収めたお宮のようなものを担ぎ、墓地内の仮小屋に入っていった。お宮、つまり棺の前で3人の神官が、ひれ伏したりその他の身振りをしながら呪文のようなものを唱えた。その間、笙と横笛が物悲しい音楽を奏でた。参列者は榊を捧げ、柏手を打つ等して故人に別れを告げた。といった様子であった(資料 1)。
鶴岡八幡宮寺から鶴岡八幡宮へ
江戸時代までの鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は源頼義が前九年の役の戦勝を記念して、康平六年(1063年)に鎌倉由比郷、いまの材木座一丁目の元八幡の地にひそかに石清水八幡宮を勧進し由比若宮としてまつったことにはじまると伝えられている。
治承四年(1180年)鎌倉入りをはたした源頼朝はその由比若宮社を小林郷の北の山(現在の下拝殿付近)に遷座した。建久三年(1192年)、火事にて拝殿を焼失したが、すぐに現在の上宮の地に建立し、正式に石清水八幡宮を勘定して本宮とし、若宮は下宮と称されるようになった。祭神は応神天皇(誉田別神)・本地阿弥陀如来、神功皇后・本地観音菩薩、比売神(応神天皇妹)・本地勢至観音であり、平安時代より展開された「神仏習合」「本地垂迹」の神社であった。そして承元二年(1208年)三善善信(康信)を惣奉行として八幡宮に神宮寺が建てられた。これが後の本地堂・薬師堂である。つまり、鶴岡八幡宮は建立された当時から神仏習合の「鎌倉八幡宮寺」であったのである。そして「鎌倉八幡宮寺」において僧侶は供僧と呼ばれ、そのなかでの最上位の者を別当と呼んだ。そして別当・供僧は神官より上の立場の者として明治になるまで多少の浮き沈みを経ながらも権勢をふるった(因みに、三代将軍源実朝を暗殺した、二代将軍源頼家の子である公暁は、第四代別当であった)。
時代はくだって天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は会津に向かう途中に鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮に参詣した。翌天正十九年(1591年)、鶴岡八幡宮の修営を約束し、徳川家康にそれを命じた。そのときの指図書が、天正指図とも呼ばれる「豊臣秀吉奉行等加判造営指図」(絵図 1)である。この図の特徴は、「しゅり(修理)」「あたらしく」などと朱で注記され工事の概要や、天正指図が描かれた以前の様子をうかがい知ることができる。下宮には若宮を取り囲むように廻廊があり、上宮、下宮とも廻廊を持つ社殿配置だったことがわかる。赤橋、内の鳥居には「あたらしく」とかいてあるので、その当時はなくなっていたのだろう。
家康は全体の造替工事が終わらないまま他界したのでこの計画は秀忠に引き継がれた。元和七年(1622年)に造営をはじめ、寛永元年(1624年)上・下宮が修造されて正遷宮が行われ、、つぎに二王門(仁王門)・大塔・護摩堂・輪蔵(経蔵)・薬師堂・神楽堂(神楽殿、下拝殿)・愛染堂・六角堂などがつくられ寛永三年に完成した。その様子は、享保十七年(1732)の「鶴岡八幡宮境内図」で知ることができる。しかし、このときの造営で、下宮の廻廊などが姿を消し、大塔(多宝塔)、神明宮があたらしく造られた。また、南大門は二王門(仁王門)、五大堂は護摩堂、神宮寺(本地堂)は薬師堂と名称を改めた。これによって鶴岡八幡宮はその面目を一新し、近世の八幡宮の姿が決定した。その盛観な様相は、享保十七年(1732)の「鶴岡八幡宮境内図」(絵図 2)で知ることができる。
以上の絵図で神仏分離、廃仏毀釈の前の鶴岡八幡宮の姿を知ることができた。天正、寛永の絵図以外にも、江戸時代には寺社参詣や名所遊覧で鎌倉や江の島を訪れるひとびとのためにたくさんの絵図が発行された。それらを参考資料として添付しておく。
それではつぎに鶴岡八幡宮における神仏分離と廃仏毀釈を見ていきたい。
by torubadour
| 2011-07-28 12:26